アマルティア・セン:潜在能力アプローチ

**何の平等か?
-ある人の特定の側面を他の人の同じ側面と比較することで、人は平等を判断する。そして、その比較を行う側面には複数の変数が存在する。例えば、所得、富、幸福、自由、機会、権利、ニーズの充足などである。社会制度に関するいかなる規範的理論も、ある何かに関する平等を求めてきた。
-例えば、[[ノージック]]のようなリバタリアンは「権利の平等」を求めた。効用の最大化をめざす[[功利主義]]でさえも、功利主義的目的関数上での各人の効用の増分に対する平等なウェイトづけを要求していると考えれば、平等を求める主張とみることができる。
-だが、人間は外的な状況(たとえば、資産の所有、社会的な背景、環境条件など)にも内的な特質(たとえば、年齢やジェンダー、健康状態、一般的な力量があるか、特別の才能があるか、など)は多様であるため、仮に複数ある変数の一つの平等を達成したとしても、その周辺部とみなされる他の変数の不平等に関しては受け入れなければならない。特定の側面の平等が他の面での不平等を正当化するということが、すべての平等論に共通の構造になっているのである。
–たとえば、ある種のエンタイトルメントに関して等しい権利を要求するリバタリアンは、権利の平等と同時に所得の平等を要求することはできない。効用のどの一単位にも等しいウェイトを与える功利主義者も、矛盾することなく自由や権利の平等を要求することはできない。
-そこで人間の多様性を前提として、各人に属する「何が」平等であるべきかが中心的問題となるのである。配分的正義の理論は、社会を構成する人々の間に存在する不平等を指摘し、その是正と解消の方策を探ろうとする思想上の努力である。この「不平等(不正義)」の存在をどのように確定し評価するのか、つまり「何が不平等なのか」の認識・評価基準をめぐって議論が生ずるのであり、採用された基準しだいで、ある現実が不平等とされるのか否か、またそれがどう是正されるべきなのか、の結論が異なってくる。「なぜ平等でいけなければならないか」という問いは、「何の平等か」に比べれば、重要ではなく、問われるべきは、「何の平等か」である。
-センは人々が「潜在能力」(ケイパビリティ)の平等こそが重要であると主張する。

**潜在能力アプローチと自由
-「潜在能力」とは、人が選択できる様々な「機能」の組み合わせを意味している。ここでいう「機能」とは、ある人が価値を見出すことの出来る様々な状態や行動である。たとえば、「十分な栄養を得ている」「避けられる病気にかからない」という基本的なものから、「コミュニティーの生活に参加する」「自尊心を持つ」というものまで多岐にわたる。「潜在能力」とは、「機能」のベクトルの集合からなり、何ができるのかという範囲を表している。そして、個人の福祉を「達成された機能」ではなく、「達成するための自由」で評価しようというのが、「潜在能力アプローチ」である。福祉を潜在能力によって捉えることの妥当性は、二つの相互に関連した考え方から成り立つ。
++「もし『達成された機能』が人の福祉を構成しているとすると、潜在能力(すなわち、ある個人が選択可能な機能のすべての組み合わせ)は、『福祉を達成するための自由(あるいは機会)』を構成している」という考え方。すなわち、潜在能力は、ある個人が福祉を達成するための手段(自由)をいくら持っているかを示すのである。しかし、手段に過ぎないということはできない。「自由」というものは、善き社会構造にとっては手段としてだけではなく、本質的に重要なものとみなされるべきである。
++「選択するということは、それ自体、生きる上で重要な一部分である」という考え方。重要な選択肢から真の選択を行うという人生はより豊かなものであるとみなされている。少なくとも特定のタイプの潜在能力は、「達成された成果」すなわち福祉に直接結びつく。選択の自由は、人の生活の質や福祉にとって直接重要なものである。
-「潜在能力」に含まれる「機能」は、単に実現されたものだけではなく、潜在的に実現可能なものまで含まれる。何をすることが可能かを示しているために、それは人々の自由の程度を示す指標でもある。経済発展とは選択可能な「機能」の幅を広げていくことであり、それは、自由の程度を増すことである。

**潜在能力アプローチの優位性
-厚生経済学で用いられている功利主義の価値概念は、快楽や幸福や欲望といった心理状態で定義される個人の効用にのみ究極の価値を見出す。そして、規範理論としての功利主義は効用の個人間比較を前提としている。しかし、すべての機能を効用に貢献する限りにおいて評価してしまうことは、重要な情報へのチャネルを失っている。
-まず、幸福であるとか欲望を持つということは主観的特性であって、客観的な有様(例えば、どれほど長生きできるか、病気にかかっているか、コミュニティの生活にどの程度参加できるか)を無視したり、それとかけ離れていたりすることが十分にあり得る。
-主観的概念としてみても、効用は主観的評価ではなく感情に関わる概念だということにある。人の評価もまた主観的ではあるが、それは内省と判断に基づくものであって、その点で、幸福や欲望とは異なっている。これと対照的に、「潜在能力アプローチ」は機能の客観的特徴に注目し、これらの機能を感情ではなく評価に基づいて判断するものである。
-また、困窮状態を受け入れてしまっている場合、願望や成果の心理的尺度ではそれほどひどい状態には見えないかもしれない。長い間、困窮した状況状態に置かれていると、その人は嘆き続けることをやめ、小さな慈悲に大きな喜びを見出す努力をし、自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで切り下げようとする。実際に、個人の力では変えることのできない逆境に置かれると、その犠牲者は、達成できないことを虚しく切望するよりは、達成可能な限られたものごとに願望を限定してしまう。このように、個人の困窮の程度は個人の効用の尺度には現れないかもしれない。こういった、固定化してしまった困窮の問題は、不平等を伴う多くのケースで、特に深刻になる。例えば、階級や共同体、カースト、ジェンダーなどの差別の問題にあてはまる。さらに、「潜在能力アプローチ」では個人が実際にどれだけの自由を享受できているかを評価することが可能なため、「飢え」と「断食」は効用アプローチでは同じと評価されてしまうが、「潜在能力アプローチ」では重大な差異を見る。すなわち、その個人が他に選択肢がなく飢えているのか、それとも他の選択肢があって、あえて飢えているのか、大きな違いを見いだすことができる。

**潜在能力アプローチが提起する望ましい社会
-豊かさ=経済成長(および所得)ととらえれば、森林を伐採し、過剰な開発を行うことによって達成できるかもしれない。だが、それは持続可能ではないし、とても豊かになったとは実感できまい。これは途上国のみならず、先進国にも言えることである。所得という「変数」だけに注目してしまうと、他の重要な「変数」(例えば、自然環境や文化・伝統など)を無視してしまいかねない。
-所得水準が十分かどうかは、潜在能力の水準によって判断されなければならない。女性や高齢者、身体障害、病気など所得を得る能力を低下させるハンディキャップが同時に所得を潜在能力に変換することをも一層困難にしている。先進国の潜在能力の欠如はそのようなハンディキャップを伴っていることが多い。
-潜在能力の向上ないしは平等という観点から、女性に負担のかかっていた育児・介護といった家事機能をシェアするシステムの必要性もあろう。あるいは、仮に所得が多くても、医療が荒廃していたり、社会保障制度が不十分である場合、病気・障害による潜在能力の欠如をより大きなものになってしまう。経済成長を至上の目標にすることではなく、人間の潜在能力を高めるための政策が必要なのである。

ベーシック・インカムと環境問題

トニー・フィッツパトリック『自由と保障 ― ベーシック・インカム論争』
∟ 第9章 エコロジズムとベーシック・インカム

9.1 育成される市民
■エコロジズムによる市民権
・ 現在の種において知覚された地位と未来の種において知覚された地位間の平等化、と定義される。
・ 人類には(人類および人類以外の)未来の世代の福祉を保証するための強い義務がある。
・ 政治共同体は地球単位の世代間関係のなかで定義される。
→諸個人は自らを自然環境の自覚的な保護者・後見人と考えるべき。自然環境は個人の所有物ではないが、個人の生活は自然環境が存在することによってはじめて可能となる。

9.2 崇高な解釈Ⅲ
■福祉国家に対するエコロジストの3つの批判
① 福祉国家は「産業主義の論理」に由来するとともに、それを支持している
・ 有限な世界のもとでは、成長の限界が存在するので、福祉国家は持続可能ではない。
・ 福祉国家は、社会問題の原因ではなく症状を扱う、福祉の治療的なシステムにすぎず、有効性に乏しい。

② 福祉国家は雇用倫理に依存している
・雇用倫理の2つの想定
1. 不安定で変動を繰り返す資本主義市場を、伝統的な核家族をしじすることによって、補正できる。
2. 仕事は、収入や地位を分配するうえでの主な手段であるべき。
・ 失業は雇用に執着する社会にもたらされた帰結。エコロジストは、雇用の重要度を引き下げて、すなわち労働時間を大幅に短縮して雇用を創出することが、雇用による福祉から脱するための必要条件と考える。

③ 福祉国家は消費者-クライアントとしての市民に基づいている
・ 福祉とは、組織の規則や基準を観察し、それに従うことを通して稼得された物質的な豊かさであるという考え方に行きつく。
・ 個人的な価値を物質主義的な尺度によって比べるべきだとする共通の本能に帰着する。

9.3 社会保障
・ 社会的公正とは、雇用水準の増加や環境に無配慮な成長ではなく、現在の雇用水準を凍結して現在の雇用を再分配することを意味する。
・ 雇用倫理の強調をやめて、雇用を生活の中心から外していくべき。

9.4 エコロジストにとってのベーシック・インカム
■BIの3つの利点
① BIには、経済成長の鈍化を促進する潜在能力がある。
・ 経済成長は財のプラスの効果を帳消しにするような「不良品」も生み出している。
・ BIは、無条件であることによって、拠出と給付の結びつきを切断し、GDPの成長に対する理論的根拠を弱める。
・ 職歴や地位と無関係に支給されるため、雇用倫理を弱体化させ、この倫理を正当化する生産主義の想定を弱体化させる。

② 共有の倫理を具現化する
・ 社会の富は、(a)自然資産、(b)経済的・技術的遺産、(c)現在の労働者/拠出者の相互努力の3つがある。(a)(b)は共同所有物であるから、そこから得られた富の一定割合を、無条件に分配すべきである。
・ 現在の移転システムは、環境破壊的な成長に最も貢献した者に最も多くの物を与えるが、BIは共有制平等主義を表現化し具現する。

③ BIは貧困と失業の罠を軽減できるので、パートタイム労働や低賃金労働が魅力的になる。

■BIを支持したがらない3つの理由

① BIが未来のエコロジカルな社会における役割を果たす可能性はあるが、その社会に導く力は弱い。
・ 緑の社会と経済に達成するためには、大衆意識を大きく変革し、制度を再編することが必要になるが、BIは既存の価値観、想定、習慣を強固にするだけである。
・ エコロジストの反物質主義と、BIの財源を調達するために高水準の物質的豊かさが必要であるという事実が矛盾を来す。

② BIによって、「労働社会」を退出し、他の活動を追求することが可能になるが、それが環境にやさしいという保証はない。

③ 環境保護派が望む分権化と、BIは中央集権的に運営せざるをえないという事実は矛盾する。

9.5 緑の政策パッケージの一部としてのベーシック・インカム

■ジェームス・ロバートソンと環境税の擁護
・BI達成が導入されると3つの機能が遂行される…
① 諸資源の共同所有権が確保される。
② 第3セクターの非国家・非市場による社会的経済が促進される
③ 環境税の逆進性の緩和
・環境税がBIとセットで導入されるときのみ、上記の目的が達成される。

■アンドレ・ゴルツと労働時間短縮の擁護
・ 公正な社会とは、必然性の領域で費やすことが求められる時間が最も短くなり、自由の領域で費やすことの時間が最も長くなった社会。この目的を達成するために、労働時間の短縮とBIの導入を提言。
・ 過剰な雇用労働に従事する者と不十分にしか従事していない者がおり、その不均衡を是正するためには、就労可能な人すべてに最低労働時間だけ働くことが要求される。
・ ゴルツの想定する社会ではBIは2つの機能を果たす…
① 雇用労働が所得の主要な源泉ではなくなり、BIは「差額を補填する」第2の小切手になる。
② 最低労働時間の労働を行わなかったり拒否すると、BIの受給権は剥奪される。
・ 反対論もあったが、エコ社会主義者の提案に労働時間の短縮とBI改革が含まれるとの考え方を確立した。

■クラウス・オッフェとインフォーマル経済の擁護

・ BIは(インフォーマル経済と「協働サークル」の成長を促すための)政策パッケージの一部となるときにはじめて大きな力を発揮する。
・ 「協働サークル」のモデルは、集合的供給が市場の形態で組織されることを提案している。それには2つの条件がある…
① サービスの交換は貨幣メディアを介して行われるのではなく、サービス・バウチャーを介して行われる。
② 不換通貨の用いられるこの種の市場を維持するために、公的補助が必要。それは財政支援ではなく、空間、設備現物支給、人的資本の提供というかたちをとる。

・「地域における貨幣を用いない交換システム」…例:LETS(Local Employment and Trading System)
・ BIと非貨幣的交換が連携したシステムは、第3セクターにおいて、重要な役割を果たす。二つは相互補完関係にある…賃労働に従事したくない者は、第3セクターにおいて他社と財やサービスを交換する機会が与えられるため、BIに頼る必要がない。日常的に貨幣を用いないで交換を行っている者は状況が変わったときにBIを最後のよりどころにできる。

9.6 結論

ベーシック・インカムとは何か

トニー・フィッツパトリック『自由と保障 ― ベーシック・インカム論争』
∟ 第3章 ベーシック・インカムの原理

3.1 はじめに

3.2 ベーシック・インカムとは何か
・ ベーシック・インカムの定義が曖昧であり、擁護に就いての選択肢が多すぎる…という問題に直面。

・ 最低所得保障構想
給付の保険/扶助モデルを根本的に改革するか全廃することによって、条件付きか無条件かを問わず、全員ないし一部の市民に対して、最低水準の所得を国家が保障するための提案。
・ ベーシック・インカム
各市民に定期的に無条件で支払われる保障された所得。無条件とは、労働上の地位、雇用の記録、労働意欲、婚姻上の地位とは関係ないことを意味する。完全BI、部分BI、過渡的BIが考えられる。
・ 社会配当、参加所得、負の所得税
BIのイデオロギー的変種。

3.3 いくらくらいかかるのか?
・ 社会保障費に、管理コストや奨学金総額、所得税の控除による歳入の減少分…などを加えると、かなりの額のBIとなる。
・ 以下の2点を考慮…
① 現在の政治的雰囲気は、支出を削減することを目標としている。
② 均一額の給付は所得保障の方法として効率的ではない。
・ 支出可能な所得は部分BIの水準。完全BIを維持するような課税は、ほとんど実現可能性がない。

3.4 ベーシック・インカム小史

① 1770年代から第1次世界大戦まで
② 戦間期
③ ケインズ・ベヴァリッジ時代
④ 現在

3.5 なぜいまなのか?

―過去に傍流に置かれてきたのはなぜか?
・ 「中範囲の効果」
それぞれの望ましい社会的目標を単独で見た時の効果は大きくないが、すべての範囲の目標を考慮した場合には、その効果が大きくなる。

―現在、なぜBIが注目されるようになったか?
・ 消極的な理由
21世紀の福祉国家を近代化する上で重要な福祉改革は、1つや2つの望ましい目標に限定された改革ではなく、すべての範囲にわたる改革である。過去における政策決定の無駄を暴露するから。
・ 積極的な理由
市民権の概念を完全な形で適用するものであるから。従来の保険と扶助の給付は、それぞれ貢献原理と必要原理によって組織されてきた。貢献原理には女性を差別する効果があり、必要原理には統制と監視のシステムを伴うものであった。

3.6 結論

ベーシック・インカム 社会保障

トニー・フィッツパトリック『自由と保障 ― ベーシック・インカム論争』
∟ 第2章 社会保障の給付と負担

2.1 はじめに
・ 社会保障の給付制度は2つの見出し(①技術的②社会的/道徳的)のもとで議論しなければいけない。
・ 本章では制度の技術論について紹介。

2.2 6種類の所得移転
① 社会保険給付
② 社会扶助給付
→資力付き扶助の賛成論と問題点
③ カテゴリー別給付
④ 自由裁量給付
⑤ 職域給付
⑥ 財政移転

2.3 社会保障の目的
―戦後における3つの発展段階
・ベヴァリッジ的なシステムの成立以前
資力調査付の扶助が極貧者へ所得移転するための手段として用いられた。
・ベヴァリッジ・システム
ベヴァリッジは、①稼得能力の喪失、②稼得能力の不足に陥った時に所得を保障することによって、貧困を防止できると説いた。社会保障が完全雇用経済に寄与することが期待された。
・1965年~
資力調査付き扶助に頼らない状況はなくならないという認識が強まり、資力調査への依存が拡大。

・社会保障の3つの目標
① 労働と貯蓄のインセンティブを著しく損なわないという意味での効率性
② 最も必要とする人へ適正な最低所得を給付するという意味での衡平
③ 運営のしやすさ
・さらに、3つの戦略的な目的 ― ①所得補助 ②不平等の縮小 ③社会統合

2.4 福祉の社会的分業
・ 国家福祉と財政福祉
国家福祉は支出として定義され、増加に対して国民は敏感だが、財政福祉は関心を引く傾向がないため、抑制されにくい。
・ 職域福祉
・ 福祉の性分業
⇒ 金銭移転についての議論は、間接的な形をとる福祉に敏感でなければならない。

2.5 失業と貧困の罠
・失業の罠
稼得と給付の差が小さいために、有給の職に就いても合計所得がそれほど増えない状況。
・貧困の罠
税と移転の効果が合わさったため、稼得が増えても所得全体がそれほど増えない状況。

2.6 租税と移転の再分配効果

■再分配のスナップ写真
・ 直接税としての所得税は、低所得者よりも高所得からより多く比重がかけられるが、間接税などのすべての税を考慮すると、課税の効果は相殺される。
・ 極貧者が受け取ったものは、最も裕福な者から移転されたものとは限らない。

■ライフサイクル的再分配
・ 人生のうちで稼得能力が最も高い時期から低い時期へと所得が再分配される。
・ 生涯にわたって裕福な者と貧しい者との間の全体的な再分配を見ていく必要がある。
→給付の分配をグロスでみると、きわめて均一。ライフサイクル的分配75%、垂直的分配25%。

2.7 ヨーロッパと世界の最近の動向

―1985年~1995年のヨーロッパの改革の傾向
① 就業期間が一般的に長くなった。
② 資力調査の使用を増やす傾向。
③ 民営化へ移行する傾向。
④ 給付を、求職や訓練のような事項に密接に関係させた、積極的な雇用手段へと移行させる傾向。
・ 概して、ヨーロッパ諸国は社会保険料の事業者負担を減らし、保険料よりも税金の方を財源として重んじ、国と地方のあいだの財源調達の責任区分を変えるように努めた。
・ OECD諸国では、扶助がますます重視される傾向。

2.8 結論
・ 貧困と失業の罠に対処するだけでなく、社会保障と税制を統合することによって、福祉の社会的分裂に挑もうとする。
・ 再分配効果がどれくらいあるのかを測定することは困難。再分配効果をはっきりさせることよりも、BIのイデオロギー的な背景を明らかにしなければならない…というのが議論の前提。

現代民主主義論

現代民主主義論

20世紀になると,国による多少の時期の違いはあるものの,民主主義体制は追求すべき理想の体制であるというよりは,すでに実現した,もしくは実現しつつある現実の制度であると意識される。こうしたデモクラシーの現実をふまえて,デモクラシーの意味を問い直した,現代の一連の議論を検討する。

エリート主義的民主主義

第一次大戦での敗北の衝撃に揺れるドイツで,政治家の資質を鋭く問うたヴェーバーの『職業としての政治』(1919)には,20世紀のデモクラシーに対する彼の冷徹な診断が展開されている。ヴェーバーは,宗教・経済・文化といった社会のいたるところで進行する合理化の過程が官僚制化を進展させ,それが政治においては,官僚(公務員)層の決定的優位をもたらしつつあると述べる。こういった状況では,議会の影響力は減退せざるをえない。それはもはや19世紀のイギリスにおけるような,議員の活発な討論を通して政治的意思決定を行う場ではない。その一方で,政党が政治の基本的単位となる政党政治化が進む。政党は,それ自体がもう一つの官僚組織となる危険性をもつが,それと同時に,社会の相反する利益を政党を単位としてまとめあげ,政党間の活発な競争を通して政治のダイナミズムを回復する可能性をもつ。ただし,ヴェーバーのみるところ,政党がそのような方向に向かうためには,強烈なカリスマ性をもつ指導者に率いられる必要があった。

ヴェーバーによれば,政治家に求められる資質とは,自らの信念に従って断固として行動し,自己の行為の結果に責任をもつということである。それに対し官僚に求められる資質は,党派性をもたず,上位者の命令に誠実に従うことである。このような官僚が政治の主役となることに,ヴェーバーは深い危機感をもつ。指導者の本質をなすカリスマ性を欠いた官僚支配を打破するために彼が期待をよせたのは,指導者の道具となって活動する「マシーン」と化した,強力な政党組鰍こ支えられた「指導者民主政」であった。

合理化・官僚制化の行き過ぎた進展を指導者のカリスマ性によって制約するというのが,ヴェーバーの最大の関心であった。そこでは,民主政には,このような強力な指導者を選出し,その正統性を担保する制度という位置づけが与えられる。

デモクラシーを有能な指導者選出のための手段とみなす考えは,20世紀前半の経済学者シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)にもみてとれる。シュンペーターによれば,ルソーが説いたような「人民主権」に基づく民主政は,現実には実現不可能である。大部分の有権者は,自分の日常からかけはなれた国家レベルの問題をしょせん現実味のない遠い世界のものごとと感じており,そのような有権者に公共の利益に合致する決定を合意によって導くよう求めるのは,そもそも無理である。それどころか,人民の意志と称されるものは当てにならないものである。というのも,それは,しばしばコントロールされた結果としての「作られた意志」にすぎないからである。

このようにシュンペーターは,市民の理性能力にはきわめて懐疑的である。こういった市民の政治的判断力への不信は,すでにスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが著書『大衆の反逆』(1930)で展開したものである。オルテガによれば,近代社会は,理性的な判断能力をもたず,不合理な感情にまかせて容易に大勢に順応する「大衆」を生み出す。このような大衆が政治に参加するとき,デモクラシーは危機的状況に陥る。こういった議論は,大衆民主主義論と呼ばれ,イギリスのウォーラスらも展開したもの。

もっとも,シュンペーターは,人民の能力にまったく期待していなかったというわけではない。人民には個々の政策決定にかかわる能力はないが,そのような政策決定をなす能力をもち,指導者となりうる人材を,選挙で定期的に選ぶ能力ならば十分に備えている。シュンペーターは,民主政治を市場になぞらえて,以下のような図式を描く。すなわち,そこでは,政治家は企業家,市民は消費者であり,市民は政治家が提供する権力という利潤をただ消費するだけである。市場を支配するのは企業家としての政治家なのであり,その意味では,デモクラシーとは「人民の統治」ではなく,「政治家の統治」である。ただし,その場合,政治を志す者たちは,人民の支持を獲得するために厳しい競争にさらされなければならない。民主主義とは,権力獲得の過程に「競争」という原理を導入する一つの方法と見るべきだ,というのである。

ダールのポリアーキー論

第二次大戦後のアメリカ政治学の第一人者となったダールは.デモクラシーの理念ではなくその現実を客観的に分析しようというシュンペーターの方法的自覚を受け継ぎながら,エリートと大衆とを対立させるシュンペーターの二元論を克服しようとした。その際にダールが注目したのは,「集団」であった。集団こそ,孤立した無力な個人と,政治に対して全面的に責任を負うと期待される指導者層の間を媒介する存在なのである。

ダールはまず,デモクラシーの伝統は,政治的平等と人民主権を奉ずる人民主義的民主主義に尽きるものではなく,第4代アメリカ大統領マディソンに発するもう一つの民主主義のモデルがあると主張した。
マディソン的民主主義は,徒党(faction)をうまく利用することに成功した体制である。マディソンによれば,一つの徒党が強大な権力をもつ事態は民主政にとって致命的な結果をもたらすが,複数の徒党同士が相互に牽制しあいつつ競合することは,民主政にとってよい結果をもたらす。
このマディソン的民主主義の伝統は,現代のアメリカにおいては,企業・労働組合・政党・宗教団体・女性団体といったさまざまな利益集団相互の競合と調整というかたちで,着実に受け継がれている。ダールは,著書『統治するのはだれか』(1961)において,1950年代のアメリカ社会のケーススタディを通し,そこではエリート論者が主張するような,一枚岩的なエリート層による政治権力の独占は実際には存在せず,権力はさまざまな利益を代表する複数の社会集団の間で共有されていると結論づける。また,個人が複数の団体に重複加盟することも少なくない。こうした集団間の交渉や連携によって一種の競争的均衡が生じ,市民は集団を通して十分に指導者をコントロールすることができる。その意味で民主政は,少数エリートの統治ではなく,複数の少数集団の統治であるというのである。

ダールはこういったアメリカの現実の民主政を,理想としての完全な民主政とは区別するために,特にポリアーキーと名づけた。ポリアーキーにおいては,ばらばらの個人ではなく,利益をともにする者の間で組織された複数の集団が相互に交渉しつつ,議会における最終的な決定にいたるまでのさまざまな過程に影響力を行使する。選挙や議会における決定という制度的局面の背後でこのような活動が展開していることこそ,アメリカを相対的にはより民主的な政体とする重要な鍵なのである。

このように,利益集団や圧力団体のような自立的集団の活動に注目する議論は,多元主義もしくは多元的民主主義論と呼ばれる。近代社会がさまざまな利害に分裂した多元的社会であるとすれば,利益集団間の妥協によって合意を導くというのは,そのような社会によく適合する民主政の一形態であることは否めない。もちろん,それがうまく機能するのは,個人の利害がいずれかの利害集団に確実に代表されていること,また利害対立が経済的なそれのように,何らかのかたちで妥協可能な比較的穏やかなものであることが,暗黙のうちに前提できる社会においてのみであろう。とはいえ,ダールのモデルは,リベラルな社会における民主政の安定という観点から見れば,きわめて説得力のあるものと受け取られたのである。

ローウィ
-ロウィ『自由主義の終焉』(1969)
–多元的民主主義への包括的な批判。
-1960年代のアメリカで主流となった多元主義に基づく政治の実態は,利益集団間のインフォーマル(非公式)なバーゲニング(交渉)が政治的決定を支配する利益集団民主主義にはかならないと主張した。
-利益集団民主主義の問題点
++民主的になされた意思決定を巧妙にねじまげることで民主政治を堕落させる
++確固とした基本方針を欠いた計画しか策定できないため,政府の権威を無力化する
++一般的な原則や規範原理を欠いているため,正義の問題を考慮することすらできない。++民主主義を支えるフォーマルな法手続きを無視することで民主政治を堕落させる。

-このような批判をもとに,ロウィは法の支配の原則の強化を提言。

-参加民主主義論
–古典古代における人民の直接参加という契機を何らかのかたちで復活すべきだという主張である。参加民主主義は,重要な政治的争点に対する国民投票の積極的な導入や,地方自治体・職場・学校といった小集団における直接意思決定システムの導入といった具体的な方策を提言する。こういった提言を襲づけるのは,積極的な政治参加によって市民が経済的利害に閉じ籠もる偏狭な存在から脱し,公共のものごとにかかわっていこうとするなど,より成熟した存在へと成長していくという期待である。この参加民主主義論の活性化に大きな影響を与えたのが,アーレントの『人間の条件』。

実際の政治過程において参加民主主義のビジョンを積極的に打ち出したのは,1960年代から70年代にかけて盛んになったニューレフトの運動(ソ連を中心とする当時の既存のマルクス主義とは一線を画しつつ,資本主義体制の抜本的改革をめざす運動)であった。多元的民主主義論者とみなされていたダールも企業内の意思決定過程の民主化の必要を唱えるなど,参加民主主義は当時広範な影響力を行使するにいたるが,ニューレフト運動の退潮とともに衰退。

新たなデモクラシーを模索する動きは,1990年代になって再び盛んになった。
規範的政治理論の分野で現在注目を集めているものが,「討議的(審議的)民主主義」と呼ばれるモデルである。
この立場の論者によれば,多元的民主主義論やその後の合理的選択理論においては,政治過程をあたかも市場における財の交換であるかのようにみなす政治観が支配的である。しかしながら,民主的な政治とは,単に諸利益の間のバーゲニングの過程に還元できるものではない。そこに自由で平等な市民の活発な討議(議論)があり,その結果何らかの合意が形成されるという過程が確保されることが決定的に重要だというのである。というのも,討議によってはじめて個人の自由と自律が確実に保障されるからである。たとえば,討議的民主主義論著の一人ガットマンによれば,討議の場に加わらない(もしくはそこから排除されている)市民は,一見自由なように見えても,実際には政治的権威による操作に対しきわめて無力な存在であるむしろ,討議と説得の過程にかかわることで,はじめて個人の自律性は強固なものとなるというのである。その場合,討議的民主主義は,参加民主主義のように市民の政治への直接参加が不可欠であるとはみなさない。現代の代表制の枠組み自体は尊重しつつ,政治家に市民に対する徹底した説明責任(アカウンタビリティ)を確保することでも,討議的民主主義の理念は実現できるとされる。討議的民主主義論はハーバーマスの「理想的発話状況」におけるコミュニケーションの理論の大きな影響下にあるが,ハーバーマスほど討議に参加する者の理性能力を重視しない立場もある。

また,現行の民主主義体制が暗黙のうちに国民国家システムを前提としているというところに批判の焦点を定め,脱国民国家型のデモクラシーを模索する動きもある。こういったデモクラシー論はマルチカルチュアリズム(多文化主義)とも連動し,定住外国人への選挙権や社会保障給付の権利の付与,就労の自由の保障といった新しい要求を掲げる。さらには,一国内部において独立性の高いエスニック集団に広範な自治権を与えたり,マイノリティ集団を単位とする集団代表権の制度を導入したりすべきだという提言も出されている。こういった模索は,フェミニズムやネオ・マルクス主義の一部をも巻き込むかたちで,ラディカル・デモクラシーとも呼ばれる流れを形成した。その一方,国民国家を超える地球大の単位でのコスモポリタンな民主主義を構想する論者もいるなど,現行のリベラル・デモクラシーに対するオルターナティブなデモクラシーを求める多彩な議論が展開しつつある。

ベーシック・インカム論争

トニー・フィッツパトリック『自由と保障 ― ベーシック・インカム論争』
∟ 第4章 弁護人対検察官

4.1 はじめに

4.2 働き者(クレージー)にならない自由
・BIは個人の自由の範囲を広げる。
「真の自由」=人々がやりたいことをする権利だけでなく、手段を持っていなければならない。

・ 真の自由を尊重する社会では、個人が「働き者」と「怠け者」のどちらになるのかを洗濯する自由を尊重されるが、現在の社会では、収入を伴った仕事にこだわっているために、働き者の生活スタイルに偏っている。

・「なぜ働き者は自分の稼ぎから、怠け者のBIの費用を出さなければならないか?」(自由主義者)
→現在の労働だけが現在の社会的財産を生み出したわけではない。BIの方が他の制度よりも中立的ということもある。

・「社会において完全なメンバーシップを獲得するためには、働く義務を果たさなければならず、怠け者の生活スタイルを尊重する必要はない」(コミュニタリアン)
→コミュニティには多数派の専横を回避するために中立性の原理が要請される。善い生活に関するある観念を持つ者が、別の観念を持つ者を迫害することは好ましくない。

4.3 公正と効率の回復
・社会的公正
① プライバシーの尊重
② 不正受給している人々の合法化
③ 最低限の所得を獲得する権利をもつという市民権の考え方を内実化
・効率性
① 行政コストの削減
② 労働市場の柔軟化、雇用率の上昇
③ 「悪性の回転」がなくなる。

4.4 罠、誘因、捕捉
・ 失業の罠、貧困の罠を克服することができる。
・ 資力調査付き給付と違って、有資格者のすべてが実際の給付を得られる。

・ 勤労の有無に関係なく所得が保証されると、労働市場から退出する者が出てくる?
・ BIのインセンティブ効果とディスインセンティブ効果

4.5 フリーライダーするサーファー
・ BIを導入した場合、誰かが生産のために払った努力に、別の者がただ乗りするのを助長し、経済的意味での社会の持続可能性の脅威となる可能性がある。

■「サーファー」への反対論…に対する4つの再反論
①自然からの授かりもの説
既存の社会財の大部分は、現在の労働の産物というよりは、自然と過去の経済からの授かりもの。
②雇用レント説
賃金稼得者は雇用レントを有している。
③プラグマティックな議論
フリーライダーは不可避の代償。
④プライスタグ説
BIは、個性や社会の多様性について実験を促しているのだから、ある程度のフリーライダーの存在は、受け入れなければならない必要悪。→フリーライダーは自由な社会の証し、と筆者は考える。

4.6 費用効果的でないという反対論
・ 部分BIでは不十分であり、水準を引き上げようとすると、税率が高くなる。
・ BIは個別的な必要や事情は無視されるため、非効率である。
・ 社会的分裂を深める可能性。

→選別主義的な分配システムの欠点
・ 資力調査付き給付…的確に、対象を定め、狙い打ち、仕留める必要がある。
・ 保険給付…拠出を行えない者を排除してしまう。

・ BIの利点は広範囲にわたるにもかかわらず、コストは明瞭。反対に、他のシステムは利点がはっきりしているがコストは隠蔽される。
・ どのシステムが最善かについては、技術的にではなく、政治的・イデオロギー的に決定される。

4.7 政治的支持に関する反対論
① BIを支持する政治連合がない。
② 選挙でBIの支持を得るのが困難。
③ 部分BIを導入するのに10年ほどかかる。

・ 実際に検討する段階となると、イデオロギー的な不一致が表面化する。BIは包括的な政策パッケージの一部として位置づけられるべき。BIを目的とした政治連合は間違いで、現実に存在する政治連合の中にBIを浸透させ、政治連合を再編する必要がある。

4.8 結論