水とダイヤモンド:パラドックス

水とダイヤモンドのパラドックス(逆説)

水は人が生きていくにはなくてはならない重要なものだ。一方、ダイヤモンドは美しいけれど
も、必要不可欠なものではない。ところがそんなダイヤモンドがたいへん高価で、水は安価というのはなぜか?

* 『国富論』を著したアダム・スミスは価値には①使用価値と②交換価値があると考えた。
* 使用価値
o 使用することによって得られる便益の大きさを表す。
* 交換価値
o 取得に必要となった費用、とくに労働量の大きさを表す。

-スミスの考えは、デビッド・リカードにより引き継がれたが、理論思考の強いリカードは、価値の基準として交換価値の方が明確であると考え、「労働価値説」を創りあげた。
-つまり、ダイヤモンドの価格が高いのは、ダイヤモンドを掘り出して加工するのに多大なる労力が必要なのに、水は天から降ってくるので労力はいらない。だから、ダイヤモンドは高価で、水は安価なのか?

-ダイヤモンドは鉱脈を見つけるだけでも大変な労力が必要となる。しかし、単に費やした労力だけでは価格を説明できないものがある。
-CPU 100万ギガヘルツ、ハードディスクの容量1億テラバイト、搭載メモリ1000億バイトのとてつもないパソコンを作ろうとすれば、計り知れないほどの費用がかかる。このパソコン、星の数ほどお札を積んでも足らない費用に相当する労力がかかるが、値段もそれと同額というわけにはいかない。実際には売り物にならない。値段を設定しても、それはお飾りにすぎず、買い手がつかない。
-クリスタルで作った弁当箱なんてモノも、きっと製造に労力はかかっても、買い手は見つからず、価格はつかない。
-ピカソのような画家がほんの5分ほどで描きあげたデッサンの価格は高価である。

-絵画や骨董品などの価格が労働価値説では説明できないことは、リカードも十分理解していた。
–そのために労働価値説は、価値の90何%かしか説明できないとも言われていた。モノの価格は、それを作成、取得に必要となった費用だけでは説明できない。

* 需要と供給で価格は決定される

-リカードが捨てた使用価値の考え方を改めて発展させたのが、マーシャルやジェボンズ、ワルラスといった今日近代経済学革命を起こしたといわれる経済学者たち。彼らが指摘するように、モノの価格は需要の強さ(=使用価値の大きさ)と供給の強さ(=交換価値の大きさ)の相互作用によって決定される決まる。
-重要な点は、人々の欲求に対してどのくらいモノが豊富に人手可能か、言い方を換えるとモノはどのくらい希少であるかにより価格が決まるということ。ダイヤモンドの場合には、人々が欲しがるほどにはモノは簡単に入手できないために非常に高価となり、水の場合には人々が生命活動を維持するために必要とする量を比較的容易に入手できるために安価となる。

-例えば砂漠のど真ん中に立っている自分の姿を想像した場合。照りつける太陽の下では、生命活動を維持することが第一なので、水に対する欲求(=需要)が強くなるが、水は手に入らない。そこへ水売りがやってきたら、きっとダイヤモンドをいくら手放してもいいから水を買おうとする。

-希少性の程度は需要と供給の相対的な大小関係により決まり、希少性が高いモノほど価格は高くなる。
-これが経済学の基本原理、需要・供給の理論。

ドイツとEU経済

第10章 ドイツとEU経済 ― 統合のパートナーから主導国へ
1.ドイツ経済の特徴
■現代ドイツの概要
・ 国土35万平方キロ(ヨーロッパ4位)。1999年、人口は8209万人(EU15の21.8%)。GDPは約2兆ユーロ(EU15の25%、ユーロ域11カ国の32%)
・ 保革の政権交代が行われ、西欧随一の国際競争力を保ちながら、しかも社会保障が行き届き、企業は従業員を重視する(ライン型資本主義)、バランスの良い制度・政策を実現してきた。

■社会的市場経済と物価安定―経済政策の理念と実践
「社会的市場経済」…自由な市場経済を基本原則としながら、他方で国家政策によって市場を補完し、最適な社会状態をめざす。
【イデオロギーとして役割】①中央統制経済に反対して市場経済の効率性を強調することで、ナチス経済と東ドイツの共産主義の双方を同時に批判できる。②市場の万能性を強調する傾向をもつ英米流の「自由放任主義」を批判することとなり、西ドイツの独自性を主張できる。

<輸出依存の経済成長>…財の輸出がGDPに占めるシェアは1990年代末で約26%。
<物価安定の原則>…社会的市場経済の思想は、物価安定を重視。

■銀行主導のコーポレート・ガバナンス(企業統治)
・ 企業統治において、銀行の果たす役割はきわめて大きい。銀行は企業経営に深く関わり、金融情報を提供し、経営にアドバイスを行う。
・ 中小企業の役割が大きい。
・ 「ドイツ・日本型」(ライン型資本主義)…メイン・バンク制,間接金融型で,経営者・株主だけでなく従業員の利害をも重視し,終身雇用,小さい賃金格差,従業員との協議による経営,愛社精神などを特徴としている。格差の小ささが共同体意識を生み,社会は安定している。
・ 「米英型」(アングロサクソン型資本主義)…金融市場依存型(直接金融型)。株主(share holder)の価値を最上位に置き,株主が気に入らない経営者は罷免されるので,経営者は常に株価を最重要視せざるをえない。業績が悪化すると,最後に雇用されたものから順にレイオフされ社員は職を失う。

→評価は時代とともに動いており、普遍的にどちらの型が優れているとは言えない。現在は第4次技術革命の時期であり、ライン型諸国でアングロ・サクソン型を取り入れる動きが顕著。
2.1990年代のドイツ経済
■5カ国の比較
・1990年代後半、ほとんどのEU構成国で雇用が増加したが、ドイツだけは減少。
・西ドイツでは労働生産性上昇率が高い製造業就業者の総雇用に占めるウェイトが35%と高い。

■1990年代ドイツの高失業とドイツ経済
<東ドイツの失業と経済の再建>
・ 統一後、旧東ドイツの失業率が急激に増加。→西ドイツとの通貨統一の影響
・ サービス業は発展したが、製造業の発展は抑制された。
・ 生産と消費のギャップを西ドイツからの資金移転によって埋める。
<ドイツの経済成長と失業>
・ 西ドイツにおいても失業は厳しい。
・ 労働市場の硬直性よりも、80年代末~90年代初めの過度好況によるもの。
→1990年代の高失業はドイツ統一と不可分。慢性的な「ドイツ病」というより、西ドイツの過度投資圧力と東の経済崩壊とのダブル効果から生じた。

■経済グローバル化とユーロによる新しい動き
・ ドイツの7つの大企業がニューヨーク株式取引所に上場。株主主導型のコーポレート・ガバナンスを取り入れ、経済グローバル化における競争に備える。
・ グローバル競争とEU域内競争の激化によって、銀行も従来の安定した収入が脅かされるようになった。ユニバーサル・バンク業務から投資銀行業務への転換。競争激化によって吸収合併が進み、銀行数も急速に減少。
・ ベンチャー株式を取引する「ノイア・マルクト」の創設。
・ 直接金融やベンチャーなどアメリカを手本とするコーポレート・ガバナンスへと転換。
・ICT化の立ち遅れに対する対応策をとっている。ICT部門の外国人技術者を最高2万人受け入れる「グリーンカード制」の開始。

3.ドイツとEU統合
■ボン=パリ枢軸
■ドイツと21世紀のEU統合
・ 先行統合…すべての統合分野で「中核諸国」が他のEU諸国に先行し、統合の行き先とモデルを示すことで統合の勢いを維持する。
・ ドイツのフィッシャー外相はEUの連邦案を打ち出す。

■ドイツの中・東欧への進出と東方拡大
・ 中・東欧諸国の経済活性化がドイツに最も有利に作用する。
・ 単一市場が拡大することで、ドイツ以外のEU諸国の企業にとって進出しやすい環境になり、ドイツに対する経済依存度はむしろ低下する可能性もある。
■ むすび

バーリン:消極的自由と積極的自由

18世紀以前の自由主義理論においては,各人がその行為にあたって外部からの干渉を受けない状態が「自由」であるとされていたのに対し,自律としての自由の場合,各人が何らかの行為を選択するその内面的な動捺の合理性が問われている。

-二つの自由にまつわる問題は,アイザイア・バーリンによる『自由論』(1969)において,「消極的自由」と「積極的自由」という概念によって,本格的に論じられる。
–消極的自由
—ある人が,いかなる他者からの干渉も受けずに自分のやりたいことを行い,自分がそうありたいようにあることを放任されている場合に,その人が「自由」であるとみなすという考え方。「○○からの自由」というかたちに書き換えられるもの。
–積極的自由
—ある人が,あれよりもこれを行うこと,そうあるよりこうあることを,自らが主体的に決定できる際に,その人が自由であるとみなすという考え方である。これはまさに,「自律」としての自由,もしくは自分が自分の支配者であるという意味での「自己支配」としての自由である。
—たとえば若いサッカー選手が練習をさぼりたいという誘惑を克服して,Jリーグ入りしたいという自分の夢の実現のためトレーニングに励むとき,彼は積極的な意味で自由なのである。

*積極的自由と国家

-バーリンは積極的自由の観念に対して批判的。
先ほどの例でいえば,つい誘惑に負けてしまう意思の弱い選手を殴りつけてでも練習させる鬼コーチの存在が,選手の積極的な意味での自由にとって必要だ,という論法になりかねない。このような論法が政治や社会のレベルに押し広げられた場合,それは最終的にはきわめて危険な帰結をもたらしかねない。すなわち,判断力の未熟な個人に変わって,国家や階級や民族という個人の上位に立つ全体的な存在が,より合理的な選択肢を個人にあてがうという「自由への強制」という事態にまで進みかねないというのである。こういった事態としてバーリンが想定しているのは,第一義的にはファシズムや共産主義であろう。それとともに彼は,第三世界の新興独立国のナショナリズムや、ある種の福祉国家の構想に対しても,それらが消極的自由を損ないかねないとして批判的である。

積極的自由の観念が,ただちに全体主義的な「自由への強制」に結び付くかどうかは,議論の分かれるところであろう。全体主義への批判という点ではバーリンに同意するとしても,積極的自由と呼ばれる自由の観念が,別の方向に展開していったなら,それは必ずしもバーリンが危惧するようなものとはならないと見る見方もあるからである。リベラルな国家が実際に存続しうるか否かは,結局のところ,それを構成する個人のあり方に左右されざるをえない。そうである以上,自由主義にとって個人の選択能力の問題は簡単に議論の姐上から排除できるものではない。積極的自由が,人間の内面を国家が直接支配するという抑圧的な方向ではなく,個人の選択の外的な条件整備という方向に展開するなら,それは個人の自由をむしろ強化していくことになるのではないか。

一定程度の豊かで健康的な生活や十分な教育が保障されてはじめて,各人は本人の望むような選択を行うことができるのである。こういう見方の登場によって,古典的自由主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな変貌をとげることになる。福祉国家型自由主義の登場である。

久米ほか『政治学』(有斐閣)60~