**何の平等か?
-ある人の特定の側面を他の人の同じ側面と比較することで、人は平等を判断する。そして、その比較を行う側面には複数の変数が存在する。例えば、所得、富、幸福、自由、機会、権利、ニーズの充足などである。社会制度に関するいかなる規範的理論も、ある何かに関する平等を求めてきた。
-例えば、[[ノージック]]のようなリバタリアンは「権利の平等」を求めた。効用の最大化をめざす[[功利主義]]でさえも、功利主義的目的関数上での各人の効用の増分に対する平等なウェイトづけを要求していると考えれば、平等を求める主張とみることができる。
-だが、人間は外的な状況(たとえば、資産の所有、社会的な背景、環境条件など)にも内的な特質(たとえば、年齢やジェンダー、健康状態、一般的な力量があるか、特別の才能があるか、など)は多様であるため、仮に複数ある変数の一つの平等を達成したとしても、その周辺部とみなされる他の変数の不平等に関しては受け入れなければならない。特定の側面の平等が他の面での不平等を正当化するということが、すべての平等論に共通の構造になっているのである。
–たとえば、ある種のエンタイトルメントに関して等しい権利を要求するリバタリアンは、権利の平等と同時に所得の平等を要求することはできない。効用のどの一単位にも等しいウェイトを与える功利主義者も、矛盾することなく自由や権利の平等を要求することはできない。
-そこで人間の多様性を前提として、各人に属する「何が」平等であるべきかが中心的問題となるのである。配分的正義の理論は、社会を構成する人々の間に存在する不平等を指摘し、その是正と解消の方策を探ろうとする思想上の努力である。この「不平等(不正義)」の存在をどのように確定し評価するのか、つまり「何が不平等なのか」の認識・評価基準をめぐって議論が生ずるのであり、採用された基準しだいで、ある現実が不平等とされるのか否か、またそれがどう是正されるべきなのか、の結論が異なってくる。「なぜ平等でいけなければならないか」という問いは、「何の平等か」に比べれば、重要ではなく、問われるべきは、「何の平等か」である。
-センは人々が「潜在能力」(ケイパビリティ)の平等こそが重要であると主張する。
**潜在能力アプローチと自由
-「潜在能力」とは、人が選択できる様々な「機能」の組み合わせを意味している。ここでいう「機能」とは、ある人が価値を見出すことの出来る様々な状態や行動である。たとえば、「十分な栄養を得ている」「避けられる病気にかからない」という基本的なものから、「コミュニティーの生活に参加する」「自尊心を持つ」というものまで多岐にわたる。「潜在能力」とは、「機能」のベクトルの集合からなり、何ができるのかという範囲を表している。そして、個人の福祉を「達成された機能」ではなく、「達成するための自由」で評価しようというのが、「潜在能力アプローチ」である。福祉を潜在能力によって捉えることの妥当性は、二つの相互に関連した考え方から成り立つ。
++「もし『達成された機能』が人の福祉を構成しているとすると、潜在能力(すなわち、ある個人が選択可能な機能のすべての組み合わせ)は、『福祉を達成するための自由(あるいは機会)』を構成している」という考え方。すなわち、潜在能力は、ある個人が福祉を達成するための手段(自由)をいくら持っているかを示すのである。しかし、手段に過ぎないということはできない。「自由」というものは、善き社会構造にとっては手段としてだけではなく、本質的に重要なものとみなされるべきである。
++「選択するということは、それ自体、生きる上で重要な一部分である」という考え方。重要な選択肢から真の選択を行うという人生はより豊かなものであるとみなされている。少なくとも特定のタイプの潜在能力は、「達成された成果」すなわち福祉に直接結びつく。選択の自由は、人の生活の質や福祉にとって直接重要なものである。
-「潜在能力」に含まれる「機能」は、単に実現されたものだけではなく、潜在的に実現可能なものまで含まれる。何をすることが可能かを示しているために、それは人々の自由の程度を示す指標でもある。経済発展とは選択可能な「機能」の幅を広げていくことであり、それは、自由の程度を増すことである。
**潜在能力アプローチの優位性
-厚生経済学で用いられている功利主義の価値概念は、快楽や幸福や欲望といった心理状態で定義される個人の効用にのみ究極の価値を見出す。そして、規範理論としての功利主義は効用の個人間比較を前提としている。しかし、すべての機能を効用に貢献する限りにおいて評価してしまうことは、重要な情報へのチャネルを失っている。
-まず、幸福であるとか欲望を持つということは主観的特性であって、客観的な有様(例えば、どれほど長生きできるか、病気にかかっているか、コミュニティの生活にどの程度参加できるか)を無視したり、それとかけ離れていたりすることが十分にあり得る。
-主観的概念としてみても、効用は主観的評価ではなく感情に関わる概念だということにある。人の評価もまた主観的ではあるが、それは内省と判断に基づくものであって、その点で、幸福や欲望とは異なっている。これと対照的に、「潜在能力アプローチ」は機能の客観的特徴に注目し、これらの機能を感情ではなく評価に基づいて判断するものである。
-また、困窮状態を受け入れてしまっている場合、願望や成果の心理的尺度ではそれほどひどい状態には見えないかもしれない。長い間、困窮した状況状態に置かれていると、その人は嘆き続けることをやめ、小さな慈悲に大きな喜びを見出す努力をし、自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで切り下げようとする。実際に、個人の力では変えることのできない逆境に置かれると、その犠牲者は、達成できないことを虚しく切望するよりは、達成可能な限られたものごとに願望を限定してしまう。このように、個人の困窮の程度は個人の効用の尺度には現れないかもしれない。こういった、固定化してしまった困窮の問題は、不平等を伴う多くのケースで、特に深刻になる。例えば、階級や共同体、カースト、ジェンダーなどの差別の問題にあてはまる。さらに、「潜在能力アプローチ」では個人が実際にどれだけの自由を享受できているかを評価することが可能なため、「飢え」と「断食」は効用アプローチでは同じと評価されてしまうが、「潜在能力アプローチ」では重大な差異を見る。すなわち、その個人が他に選択肢がなく飢えているのか、それとも他の選択肢があって、あえて飢えているのか、大きな違いを見いだすことができる。
**潜在能力アプローチが提起する望ましい社会
-豊かさ=経済成長(および所得)ととらえれば、森林を伐採し、過剰な開発を行うことによって達成できるかもしれない。だが、それは持続可能ではないし、とても豊かになったとは実感できまい。これは途上国のみならず、先進国にも言えることである。所得という「変数」だけに注目してしまうと、他の重要な「変数」(例えば、自然環境や文化・伝統など)を無視してしまいかねない。
-所得水準が十分かどうかは、潜在能力の水準によって判断されなければならない。女性や高齢者、身体障害、病気など所得を得る能力を低下させるハンディキャップが同時に所得を潜在能力に変換することをも一層困難にしている。先進国の潜在能力の欠如はそのようなハンディキャップを伴っていることが多い。
-潜在能力の向上ないしは平等という観点から、女性に負担のかかっていた育児・介護といった家事機能をシェアするシステムの必要性もあろう。あるいは、仮に所得が多くても、医療が荒廃していたり、社会保障制度が不十分である場合、病気・障害による潜在能力の欠如をより大きなものになってしまう。経済成長を至上の目標にすることではなく、人間の潜在能力を高めるための政策が必要なのである。