「良いガヴァナンス」と所得水準
-世界銀行における「ガヴァナンス」概念
–「ある国で権威が行使されるときに依拠する伝統と制度」、つまり国家が権威的な政策を執行するときの権力行使の枠組みのことである。そして、その伝統と制度には、①「政府が選ばれ、監視され、交代させられる過程」(選挙制度)②「健全な政策を効果的に作成し、執行する政府の能力」(政策過程)③「市民と国家との間の経済・社会的相互関係を支配する制度に対する市民と国家それぞれの尊敬の度合い](政治文化)が含まれる。
このガヴァナンス概念は、政経分離の原則に立つ世界銀行が、アメリカが「人権」外交の強化の一環として、世界銀行に「政治的コンディショナリティ」、つまり民主化条件に基づく途上国支援を強く要請してきたことに抵抗しきれずに、1992年に発表したものである。世銀としては、規定上あくまでも政経分離の原則を堅持しなければならないし、しかしアメリカの圧力をも強く惑じないわけにもいかず、そのジレンマから生み出したものが政府バフォーマンスを評価する指標としての「ガヴァナンス」である。
「ガヴァナンス」を評価する際に、前述の「選挙制度」「政策過程」「政治文化」の3項目に各2つの測度が設定される。それぞれの測度は、複数の指標のクラスターから構成される。
選挙制度は「異議申立てと説明責任」と「政治的安定性」の測度、政策過程は「政府部門の有効性」と「規制政策の質」の測度、政治文化は「法の支配」と「腐敗防止」の測度、というように合計6つの測度が設定される。
「異議申立てと説明責任」は、政治過程、市民的自由、政治的権利を測定する指標から構成されるが、マスメディアの役割の評価も重要な指標として盛り込まれている。「政治的安定性」は、政府がテロを含む反憲法的もしくは暴力的な手段で不安定なものにされるか、あるいは打倒される可能性の指標である。選挙制度全体の指標は、政策の継続性に直接影響を与えるだけではなく、政権を担う人々を平和衷に選出し、そして交代させる市民の能力を損なうような政治変動の可能性を測定するを意図している。
「政府部門の有効性」とは、公共サービス供給の質、官僚制の質、公務員の能力、政治的圧力からの文官の独立性、政策を一つにまとめることに対する政府関与の信頼性の指標からなる。この測度は、良い政策を作成・執行し、かつ公共財を供給することのできる政府の入力サイドに関連するものである。「規制政策の質」は、市場経済に対する規制の適切さを測る測度である。例えば、価格統制や不適切な銀行指導など市場経済の原則を損なうような介入が行なわれていないかどうか、貿易や経済開発などの分野に過剰な規制を加えていないかどうかが測定される。
「法の支配」は、政府機関が社会の規則を信頼し、それを遵守する程度、公正かつ予測可能な規則が経済的・社会的相互関係の基礎となるような環境を発展させる社会の成功の度合いを測定する測度である。暴力・非暴力の犯罪発生率、司法の有効性と予測可能性、そして契約の強制力が具体的には測定される。
「腐敗防止」とは、公権力を私的利益のために活用すると定義される腐敗の程度の測度である。この測度の指標は、データ・ソースによって内容が多岐にわたっているが、一般的に、贈賄する立場にある者(市民・企業)と収賄する立場にある者(公職者)の双方が彼らの相互関係を支配し、ガヴァナンスの失敗の基準を定める規則に対する尊敬の欠如の測定である。
世界銀行は、これらの測度に基づき175カ国のガヴァナンスを測定して、「1人当たりの所得とガヴァナンスの質」に関して次のような統計的な知見を導き出した。①良いガヴァナンスからより高い1人当たりの所得への強い正の因果的効果が存在する。②1人当たりの所得からガヴァナンスヘの因果的効果に関しては弱い相関、かつ逆相関が観察される。
このようにして、良いガヴァナンスを達成すれば、高い国民所得をもたらされるということを統計的に導き出した。
では、ガヴァナンスと所得水準の間にはどのような関係があるのか。「良いガヴァナンスは高い所得水準をもたらす」という知見は、韓国、シンガポール、中国といった国家はその高い規律性、つまり「アジア的価値」ゆえに経済成長をもたらすという主張に対する反証となる。しかし、この知見には、「因果的効果」としている点で疑問が生ずる。「因果的」であるためには、良いガヴァナンスが原因となって高い国民所得という結果をもたらし、その逆ではない、という結論にならなければならない。しかし、良いガヴァナンスと高い国民所得との関係は、あくまでも「相関」が高いというにとどまるのであり、それらは決して因果的な関係があるとまではいえない。
世界の民主化の推進を目的とし、毎年、各国の自由度を測定している「自由の家」では、政治的権利と市民的自由の2つの測度を用いて各国の自由度を評価している。そして、①政治権力が定期的に行なわれる自由かつ公正な選挙を通して競争する政党間で争われる、②与党は選挙で野党になる可能性がある、という要件を満たしている国家を「選挙民主主義国」と定義する。
2002年現在、世銀による国民所得別国家の分類によれば、188カ国のうち最も数の多いのは低所得国63カ国、次いで下位中所得国53カ国、高所得国38カ国、そして上位中所得国34カ国の順である。
ここで、「選挙民主主義」と「良いガヴァナンス」が同じ意味であると仮定した場合、「良いガヴァナンスが高い所得水準をもたらす」というの知見は支持されない。というのも、低所得国63カ国のうち3分の1にあたる27カ国が選挙民主主義国となってしまい、そのなかには「自由国」と評価された国が7ヵ国もあり、とうてい良いガヴァナンスが高い所得をもたらすとはいえない。さらに、その7カ国のうち6カ国が債務に苦しんでいる。低所得国で選挙民主主義と判定された27カ国中の19カ国が債務に苦しみ、約半数の14カ国が重債務国となっている。同じく非選挙民主主義と判定された36カ国のうちで30カ国が債務に苦しみ、20カ国が重債務国である。非選挙民主主義国のほうがガヴァナンス度が低いが、だからといって選挙民主主義国のほうがそれは高い、とはいいきれない。下位中所得国の場合には、選挙民主主義国も非選挙民主主義国も債務の状況にはほとんど差がないのである。
このように、低所得国でも自由民主主義の体制は可能である、といえるにすぎない。民主主義であることは、良いガヴァナンスを保証していないのである。
世界銀行のガヴァナンス評価を所得水準と選挙民主主義ごとにみて、それぞれの所得水準ごとに比較すると、どの測度に関しても高い所得の国ほどガヴァナンス評価が顕著に高い。 しかし、各所得水準ごとに選挙民主主義国と非選挙民主主義国の評価の平均をみると、高所得国ならびに上位中所得国では、いずれも選挙民主主義国のガヴァナンス評価が非選挙民主主義国のそれよりも高くなっている。他方、下位中所得国ならびに低所得国では、両体制間の評価の差はほとんどない。所得水準が「政府部門の有効性」の結果であると仮定したとしても、同一所得水準内でも、非選挙民主主義国の評価は、選挙民主主義国のそれよりも劣る。
つまり、ガヴァナンス評価は、各国の所得水準の結果である可能性が高く、①高所得国と上位中所得国のような経済的に豊かな国の場合、選挙民主主義体制を機能させる条件が整っている、②下位中所得国ならびに低所得国は、選挙民主主義体制を機能させる条件に恵まれていない、という結論が導き出される。
所得水準が選挙民主主義体制を機能させる条件となるかどうかを観察するために、選挙民主主義国を所得水準別に比較した場合、上位中所得国は、高所得国の選挙民主主義国と非選挙民主主義国との間の差よりも、高所得国の選挙民主主義国の評価に対して小さい差を示している。しかし、下位中所得国と低所得国のそれは、経済的豊かさが民主主義体制の機能にとって必須の条件となっていることを示す。とりわけ、海外の投資家が投資対象国の投資条件の―つとして重要視するカントリーリスクを示す指標となる「政治的安定性」である。政治的安定性は、所得水準が高いほど高く、低いほど低くなる。一般的に、経済的貧困は最も有力な政治の不安製化要因となるのである。
「東アジアの奇跡」の代表例として言及されるシンガポールとマレーシアの両国は、政治的批判に対してある程度は寛容ではあるものの、実態は権威主義的体制であり続けるとみなされている。シンガポールは、「異議申立てと説明責任」と「規制政策の質」で高所得国の平均を下回るものの、他の指標では平均や日本のそれを上回っており、「政府部門の有効性」と「腐敗防止」では、高所得国のなかでもトップクラスの高い評価を得ている。一方、マレーシアでは、「法の支配」を除く他の指標では、同一の所得水準の平均を下回る低い評価を得ており、マレーシアの評価は著しく低い。
良いガヴァナンスと民主主義は一致しない可能性があり、ある種の「良い」ガヴァナンスは、豊かな経済生活を達成する可能性があること、同じ「アジア的価値」の社会でも、民主主義的体制であるかどうかは別として、「良い」ガヴァナンスでない国は所得水準が低いこと、そして「良い」ガヴァナンスと高い所得水準との間の相関は確認されるものの、その相関は因果関係としてではない「関係」でしかないということがいえる。