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現代民主主義論

現代民主主義論

20世紀になると,国による多少の時期の違いはあるものの,民主主義体制は追求すべき理想の体制であるというよりは,すでに実現した,もしくは実現しつつある現実の制度であると意識される。こうしたデモクラシーの現実をふまえて,デモクラシーの意味を問い直した,現代の一連の議論を検討する。

エリート主義的民主主義

第一次大戦での敗北の衝撃に揺れるドイツで,政治家の資質を鋭く問うたヴェーバーの『職業としての政治』(1919)には,20世紀のデモクラシーに対する彼の冷徹な診断が展開されている。ヴェーバーは,宗教・経済・文化といった社会のいたるところで進行する合理化の過程が官僚制化を進展させ,それが政治においては,官僚(公務員)層の決定的優位をもたらしつつあると述べる。こういった状況では,議会の影響力は減退せざるをえない。それはもはや19世紀のイギリスにおけるような,議員の活発な討論を通して政治的意思決定を行う場ではない。その一方で,政党が政治の基本的単位となる政党政治化が進む。政党は,それ自体がもう一つの官僚組織となる危険性をもつが,それと同時に,社会の相反する利益を政党を単位としてまとめあげ,政党間の活発な競争を通して政治のダイナミズムを回復する可能性をもつ。ただし,ヴェーバーのみるところ,政党がそのような方向に向かうためには,強烈なカリスマ性をもつ指導者に率いられる必要があった。

ヴェーバーによれば,政治家に求められる資質とは,自らの信念に従って断固として行動し,自己の行為の結果に責任をもつということである。それに対し官僚に求められる資質は,党派性をもたず,上位者の命令に誠実に従うことである。このような官僚が政治の主役となることに,ヴェーバーは深い危機感をもつ。指導者の本質をなすカリスマ性を欠いた官僚支配を打破するために彼が期待をよせたのは,指導者の道具となって活動する「マシーン」と化した,強力な政党組鰍こ支えられた「指導者民主政」であった。

合理化・官僚制化の行き過ぎた進展を指導者のカリスマ性によって制約するというのが,ヴェーバーの最大の関心であった。そこでは,民主政には,このような強力な指導者を選出し,その正統性を担保する制度という位置づけが与えられる。

デモクラシーを有能な指導者選出のための手段とみなす考えは,20世紀前半の経済学者シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)にもみてとれる。シュンペーターによれば,ルソーが説いたような「人民主権」に基づく民主政は,現実には実現不可能である。大部分の有権者は,自分の日常からかけはなれた国家レベルの問題をしょせん現実味のない遠い世界のものごとと感じており,そのような有権者に公共の利益に合致する決定を合意によって導くよう求めるのは,そもそも無理である。それどころか,人民の意志と称されるものは当てにならないものである。というのも,それは,しばしばコントロールされた結果としての「作られた意志」にすぎないからである。

このようにシュンペーターは,市民の理性能力にはきわめて懐疑的である。こういった市民の政治的判断力への不信は,すでにスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが著書『大衆の反逆』(1930)で展開したものである。オルテガによれば,近代社会は,理性的な判断能力をもたず,不合理な感情にまかせて容易に大勢に順応する「大衆」を生み出す。このような大衆が政治に参加するとき,デモクラシーは危機的状況に陥る。こういった議論は,大衆民主主義論と呼ばれ,イギリスのウォーラスらも展開したもの。

もっとも,シュンペーターは,人民の能力にまったく期待していなかったというわけではない。人民には個々の政策決定にかかわる能力はないが,そのような政策決定をなす能力をもち,指導者となりうる人材を,選挙で定期的に選ぶ能力ならば十分に備えている。シュンペーターは,民主政治を市場になぞらえて,以下のような図式を描く。すなわち,そこでは,政治家は企業家,市民は消費者であり,市民は政治家が提供する権力という利潤をただ消費するだけである。市場を支配するのは企業家としての政治家なのであり,その意味では,デモクラシーとは「人民の統治」ではなく,「政治家の統治」である。ただし,その場合,政治を志す者たちは,人民の支持を獲得するために厳しい競争にさらされなければならない。民主主義とは,権力獲得の過程に「競争」という原理を導入する一つの方法と見るべきだ,というのである。

ダールのポリアーキー論

第二次大戦後のアメリカ政治学の第一人者となったダールは.デモクラシーの理念ではなくその現実を客観的に分析しようというシュンペーターの方法的自覚を受け継ぎながら,エリートと大衆とを対立させるシュンペーターの二元論を克服しようとした。その際にダールが注目したのは,「集団」であった。集団こそ,孤立した無力な個人と,政治に対して全面的に責任を負うと期待される指導者層の間を媒介する存在なのである。

ダールはまず,デモクラシーの伝統は,政治的平等と人民主権を奉ずる人民主義的民主主義に尽きるものではなく,第4代アメリカ大統領マディソンに発するもう一つの民主主義のモデルがあると主張した。
マディソン的民主主義は,徒党(faction)をうまく利用することに成功した体制である。マディソンによれば,一つの徒党が強大な権力をもつ事態は民主政にとって致命的な結果をもたらすが,複数の徒党同士が相互に牽制しあいつつ競合することは,民主政にとってよい結果をもたらす。
このマディソン的民主主義の伝統は,現代のアメリカにおいては,企業・労働組合・政党・宗教団体・女性団体といったさまざまな利益集団相互の競合と調整というかたちで,着実に受け継がれている。ダールは,著書『統治するのはだれか』(1961)において,1950年代のアメリカ社会のケーススタディを通し,そこではエリート論者が主張するような,一枚岩的なエリート層による政治権力の独占は実際には存在せず,権力はさまざまな利益を代表する複数の社会集団の間で共有されていると結論づける。また,個人が複数の団体に重複加盟することも少なくない。こうした集団間の交渉や連携によって一種の競争的均衡が生じ,市民は集団を通して十分に指導者をコントロールすることができる。その意味で民主政は,少数エリートの統治ではなく,複数の少数集団の統治であるというのである。

ダールはこういったアメリカの現実の民主政を,理想としての完全な民主政とは区別するために,特にポリアーキーと名づけた。ポリアーキーにおいては,ばらばらの個人ではなく,利益をともにする者の間で組織された複数の集団が相互に交渉しつつ,議会における最終的な決定にいたるまでのさまざまな過程に影響力を行使する。選挙や議会における決定という制度的局面の背後でこのような活動が展開していることこそ,アメリカを相対的にはより民主的な政体とする重要な鍵なのである。

このように,利益集団や圧力団体のような自立的集団の活動に注目する議論は,多元主義もしくは多元的民主主義論と呼ばれる。近代社会がさまざまな利害に分裂した多元的社会であるとすれば,利益集団間の妥協によって合意を導くというのは,そのような社会によく適合する民主政の一形態であることは否めない。もちろん,それがうまく機能するのは,個人の利害がいずれかの利害集団に確実に代表されていること,また利害対立が経済的なそれのように,何らかのかたちで妥協可能な比較的穏やかなものであることが,暗黙のうちに前提できる社会においてのみであろう。とはいえ,ダールのモデルは,リベラルな社会における民主政の安定という観点から見れば,きわめて説得力のあるものと受け取られたのである。

ローウィ
-ロウィ『自由主義の終焉』(1969)
–多元的民主主義への包括的な批判。
-1960年代のアメリカで主流となった多元主義に基づく政治の実態は,利益集団間のインフォーマル(非公式)なバーゲニング(交渉)が政治的決定を支配する利益集団民主主義にはかならないと主張した。
-利益集団民主主義の問題点
++民主的になされた意思決定を巧妙にねじまげることで民主政治を堕落させる
++確固とした基本方針を欠いた計画しか策定できないため,政府の権威を無力化する
++一般的な原則や規範原理を欠いているため,正義の問題を考慮することすらできない。++民主主義を支えるフォーマルな法手続きを無視することで民主政治を堕落させる。

-このような批判をもとに,ロウィは法の支配の原則の強化を提言。

-参加民主主義論
–古典古代における人民の直接参加という契機を何らかのかたちで復活すべきだという主張である。参加民主主義は,重要な政治的争点に対する国民投票の積極的な導入や,地方自治体・職場・学校といった小集団における直接意思決定システムの導入といった具体的な方策を提言する。こういった提言を襲づけるのは,積極的な政治参加によって市民が経済的利害に閉じ籠もる偏狭な存在から脱し,公共のものごとにかかわっていこうとするなど,より成熟した存在へと成長していくという期待である。この参加民主主義論の活性化に大きな影響を与えたのが,アーレントの『人間の条件』。

実際の政治過程において参加民主主義のビジョンを積極的に打ち出したのは,1960年代から70年代にかけて盛んになったニューレフトの運動(ソ連を中心とする当時の既存のマルクス主義とは一線を画しつつ,資本主義体制の抜本的改革をめざす運動)であった。多元的民主主義論者とみなされていたダールも企業内の意思決定過程の民主化の必要を唱えるなど,参加民主主義は当時広範な影響力を行使するにいたるが,ニューレフト運動の退潮とともに衰退。

新たなデモクラシーを模索する動きは,1990年代になって再び盛んになった。
規範的政治理論の分野で現在注目を集めているものが,「討議的(審議的)民主主義」と呼ばれるモデルである。
この立場の論者によれば,多元的民主主義論やその後の合理的選択理論においては,政治過程をあたかも市場における財の交換であるかのようにみなす政治観が支配的である。しかしながら,民主的な政治とは,単に諸利益の間のバーゲニングの過程に還元できるものではない。そこに自由で平等な市民の活発な討議(議論)があり,その結果何らかの合意が形成されるという過程が確保されることが決定的に重要だというのである。というのも,討議によってはじめて個人の自由と自律が確実に保障されるからである。たとえば,討議的民主主義論著の一人ガットマンによれば,討議の場に加わらない(もしくはそこから排除されている)市民は,一見自由なように見えても,実際には政治的権威による操作に対しきわめて無力な存在であるむしろ,討議と説得の過程にかかわることで,はじめて個人の自律性は強固なものとなるというのである。その場合,討議的民主主義は,参加民主主義のように市民の政治への直接参加が不可欠であるとはみなさない。現代の代表制の枠組み自体は尊重しつつ,政治家に市民に対する徹底した説明責任(アカウンタビリティ)を確保することでも,討議的民主主義の理念は実現できるとされる。討議的民主主義論はハーバーマスの「理想的発話状況」におけるコミュニケーションの理論の大きな影響下にあるが,ハーバーマスほど討議に参加する者の理性能力を重視しない立場もある。

また,現行の民主主義体制が暗黙のうちに国民国家システムを前提としているというところに批判の焦点を定め,脱国民国家型のデモクラシーを模索する動きもある。こういったデモクラシー論はマルチカルチュアリズム(多文化主義)とも連動し,定住外国人への選挙権や社会保障給付の権利の付与,就労の自由の保障といった新しい要求を掲げる。さらには,一国内部において独立性の高いエスニック集団に広範な自治権を与えたり,マイノリティ集団を単位とする集団代表権の制度を導入したりすべきだという提言も出されている。こういった模索は,フェミニズムやネオ・マルクス主義の一部をも巻き込むかたちで,ラディカル・デモクラシーとも呼ばれる流れを形成した。その一方,国民国家を超える地球大の単位でのコスモポリタンな民主主義を構想する論者もいるなど,現行のリベラル・デモクラシーに対するオルターナティブなデモクラシーを求める多彩な議論が展開しつつある。