バーリン:消極的自由と積極的自由

18世紀以前の自由主義理論においては,各人がその行為にあたって外部からの干渉を受けない状態が「自由」であるとされていたのに対し,自律としての自由の場合,各人が何らかの行為を選択するその内面的な動捺の合理性が問われている。

-二つの自由にまつわる問題は,アイザイア・バーリンによる『自由論』(1969)において,「消極的自由」と「積極的自由」という概念によって,本格的に論じられる。
–消極的自由
—ある人が,いかなる他者からの干渉も受けずに自分のやりたいことを行い,自分がそうありたいようにあることを放任されている場合に,その人が「自由」であるとみなすという考え方。「○○からの自由」というかたちに書き換えられるもの。
–積極的自由
—ある人が,あれよりもこれを行うこと,そうあるよりこうあることを,自らが主体的に決定できる際に,その人が自由であるとみなすという考え方である。これはまさに,「自律」としての自由,もしくは自分が自分の支配者であるという意味での「自己支配」としての自由である。
—たとえば若いサッカー選手が練習をさぼりたいという誘惑を克服して,Jリーグ入りしたいという自分の夢の実現のためトレーニングに励むとき,彼は積極的な意味で自由なのである。

*積極的自由と国家

-バーリンは積極的自由の観念に対して批判的。
先ほどの例でいえば,つい誘惑に負けてしまう意思の弱い選手を殴りつけてでも練習させる鬼コーチの存在が,選手の積極的な意味での自由にとって必要だ,という論法になりかねない。このような論法が政治や社会のレベルに押し広げられた場合,それは最終的にはきわめて危険な帰結をもたらしかねない。すなわち,判断力の未熟な個人に変わって,国家や階級や民族という個人の上位に立つ全体的な存在が,より合理的な選択肢を個人にあてがうという「自由への強制」という事態にまで進みかねないというのである。こういった事態としてバーリンが想定しているのは,第一義的にはファシズムや共産主義であろう。それとともに彼は,第三世界の新興独立国のナショナリズムや、ある種の福祉国家の構想に対しても,それらが消極的自由を損ないかねないとして批判的である。

積極的自由の観念が,ただちに全体主義的な「自由への強制」に結び付くかどうかは,議論の分かれるところであろう。全体主義への批判という点ではバーリンに同意するとしても,積極的自由と呼ばれる自由の観念が,別の方向に展開していったなら,それは必ずしもバーリンが危惧するようなものとはならないと見る見方もあるからである。リベラルな国家が実際に存続しうるか否かは,結局のところ,それを構成する個人のあり方に左右されざるをえない。そうである以上,自由主義にとって個人の選択能力の問題は簡単に議論の姐上から排除できるものではない。積極的自由が,人間の内面を国家が直接支配するという抑圧的な方向ではなく,個人の選択の外的な条件整備という方向に展開するなら,それは個人の自由をむしろ強化していくことになるのではないか。

一定程度の豊かで健康的な生活や十分な教育が保障されてはじめて,各人は本人の望むような選択を行うことができるのである。こういう見方の登場によって,古典的自由主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな変貌をとげることになる。福祉国家型自由主義の登場である。

久米ほか『政治学』(有斐閣)60~

現代民主主義論

現代民主主義論

20世紀になると,国による多少の時期の違いはあるものの,民主主義体制は追求すべき理想の体制であるというよりは,すでに実現した,もしくは実現しつつある現実の制度であると意識される。こうしたデモクラシーの現実をふまえて,デモクラシーの意味を問い直した,現代の一連の議論を検討する。

エリート主義的民主主義

第一次大戦での敗北の衝撃に揺れるドイツで,政治家の資質を鋭く問うたヴェーバーの『職業としての政治』(1919)には,20世紀のデモクラシーに対する彼の冷徹な診断が展開されている。ヴェーバーは,宗教・経済・文化といった社会のいたるところで進行する合理化の過程が官僚制化を進展させ,それが政治においては,官僚(公務員)層の決定的優位をもたらしつつあると述べる。こういった状況では,議会の影響力は減退せざるをえない。それはもはや19世紀のイギリスにおけるような,議員の活発な討論を通して政治的意思決定を行う場ではない。その一方で,政党が政治の基本的単位となる政党政治化が進む。政党は,それ自体がもう一つの官僚組織となる危険性をもつが,それと同時に,社会の相反する利益を政党を単位としてまとめあげ,政党間の活発な競争を通して政治のダイナミズムを回復する可能性をもつ。ただし,ヴェーバーのみるところ,政党がそのような方向に向かうためには,強烈なカリスマ性をもつ指導者に率いられる必要があった。

ヴェーバーによれば,政治家に求められる資質とは,自らの信念に従って断固として行動し,自己の行為の結果に責任をもつということである。それに対し官僚に求められる資質は,党派性をもたず,上位者の命令に誠実に従うことである。このような官僚が政治の主役となることに,ヴェーバーは深い危機感をもつ。指導者の本質をなすカリスマ性を欠いた官僚支配を打破するために彼が期待をよせたのは,指導者の道具となって活動する「マシーン」と化した,強力な政党組鰍こ支えられた「指導者民主政」であった。

合理化・官僚制化の行き過ぎた進展を指導者のカリスマ性によって制約するというのが,ヴェーバーの最大の関心であった。そこでは,民主政には,このような強力な指導者を選出し,その正統性を担保する制度という位置づけが与えられる。

デモクラシーを有能な指導者選出のための手段とみなす考えは,20世紀前半の経済学者シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)にもみてとれる。シュンペーターによれば,ルソーが説いたような「人民主権」に基づく民主政は,現実には実現不可能である。大部分の有権者は,自分の日常からかけはなれた国家レベルの問題をしょせん現実味のない遠い世界のものごとと感じており,そのような有権者に公共の利益に合致する決定を合意によって導くよう求めるのは,そもそも無理である。それどころか,人民の意志と称されるものは当てにならないものである。というのも,それは,しばしばコントロールされた結果としての「作られた意志」にすぎないからである。

このようにシュンペーターは,市民の理性能力にはきわめて懐疑的である。こういった市民の政治的判断力への不信は,すでにスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが著書『大衆の反逆』(1930)で展開したものである。オルテガによれば,近代社会は,理性的な判断能力をもたず,不合理な感情にまかせて容易に大勢に順応する「大衆」を生み出す。このような大衆が政治に参加するとき,デモクラシーは危機的状況に陥る。こういった議論は,大衆民主主義論と呼ばれ,イギリスのウォーラスらも展開したもの。

もっとも,シュンペーターは,人民の能力にまったく期待していなかったというわけではない。人民には個々の政策決定にかかわる能力はないが,そのような政策決定をなす能力をもち,指導者となりうる人材を,選挙で定期的に選ぶ能力ならば十分に備えている。シュンペーターは,民主政治を市場になぞらえて,以下のような図式を描く。すなわち,そこでは,政治家は企業家,市民は消費者であり,市民は政治家が提供する権力という利潤をただ消費するだけである。市場を支配するのは企業家としての政治家なのであり,その意味では,デモクラシーとは「人民の統治」ではなく,「政治家の統治」である。ただし,その場合,政治を志す者たちは,人民の支持を獲得するために厳しい競争にさらされなければならない。民主主義とは,権力獲得の過程に「競争」という原理を導入する一つの方法と見るべきだ,というのである。

ダールのポリアーキー論

第二次大戦後のアメリカ政治学の第一人者となったダールは.デモクラシーの理念ではなくその現実を客観的に分析しようというシュンペーターの方法的自覚を受け継ぎながら,エリートと大衆とを対立させるシュンペーターの二元論を克服しようとした。その際にダールが注目したのは,「集団」であった。集団こそ,孤立した無力な個人と,政治に対して全面的に責任を負うと期待される指導者層の間を媒介する存在なのである。

ダールはまず,デモクラシーの伝統は,政治的平等と人民主権を奉ずる人民主義的民主主義に尽きるものではなく,第4代アメリカ大統領マディソンに発するもう一つの民主主義のモデルがあると主張した。
マディソン的民主主義は,徒党(faction)をうまく利用することに成功した体制である。マディソンによれば,一つの徒党が強大な権力をもつ事態は民主政にとって致命的な結果をもたらすが,複数の徒党同士が相互に牽制しあいつつ競合することは,民主政にとってよい結果をもたらす。
このマディソン的民主主義の伝統は,現代のアメリカにおいては,企業・労働組合・政党・宗教団体・女性団体といったさまざまな利益集団相互の競合と調整というかたちで,着実に受け継がれている。ダールは,著書『統治するのはだれか』(1961)において,1950年代のアメリカ社会のケーススタディを通し,そこではエリート論者が主張するような,一枚岩的なエリート層による政治権力の独占は実際には存在せず,権力はさまざまな利益を代表する複数の社会集団の間で共有されていると結論づける。また,個人が複数の団体に重複加盟することも少なくない。こうした集団間の交渉や連携によって一種の競争的均衡が生じ,市民は集団を通して十分に指導者をコントロールすることができる。その意味で民主政は,少数エリートの統治ではなく,複数の少数集団の統治であるというのである。

ダールはこういったアメリカの現実の民主政を,理想としての完全な民主政とは区別するために,特にポリアーキーと名づけた。ポリアーキーにおいては,ばらばらの個人ではなく,利益をともにする者の間で組織された複数の集団が相互に交渉しつつ,議会における最終的な決定にいたるまでのさまざまな過程に影響力を行使する。選挙や議会における決定という制度的局面の背後でこのような活動が展開していることこそ,アメリカを相対的にはより民主的な政体とする重要な鍵なのである。

このように,利益集団や圧力団体のような自立的集団の活動に注目する議論は,多元主義もしくは多元的民主主義論と呼ばれる。近代社会がさまざまな利害に分裂した多元的社会であるとすれば,利益集団間の妥協によって合意を導くというのは,そのような社会によく適合する民主政の一形態であることは否めない。もちろん,それがうまく機能するのは,個人の利害がいずれかの利害集団に確実に代表されていること,また利害対立が経済的なそれのように,何らかのかたちで妥協可能な比較的穏やかなものであることが,暗黙のうちに前提できる社会においてのみであろう。とはいえ,ダールのモデルは,リベラルな社会における民主政の安定という観点から見れば,きわめて説得力のあるものと受け取られたのである。

ローウィ
-ロウィ『自由主義の終焉』(1969)
–多元的民主主義への包括的な批判。
-1960年代のアメリカで主流となった多元主義に基づく政治の実態は,利益集団間のインフォーマル(非公式)なバーゲニング(交渉)が政治的決定を支配する利益集団民主主義にはかならないと主張した。
-利益集団民主主義の問題点
++民主的になされた意思決定を巧妙にねじまげることで民主政治を堕落させる
++確固とした基本方針を欠いた計画しか策定できないため,政府の権威を無力化する
++一般的な原則や規範原理を欠いているため,正義の問題を考慮することすらできない。++民主主義を支えるフォーマルな法手続きを無視することで民主政治を堕落させる。

-このような批判をもとに,ロウィは法の支配の原則の強化を提言。

-参加民主主義論
–古典古代における人民の直接参加という契機を何らかのかたちで復活すべきだという主張である。参加民主主義は,重要な政治的争点に対する国民投票の積極的な導入や,地方自治体・職場・学校といった小集団における直接意思決定システムの導入といった具体的な方策を提言する。こういった提言を襲づけるのは,積極的な政治参加によって市民が経済的利害に閉じ籠もる偏狭な存在から脱し,公共のものごとにかかわっていこうとするなど,より成熟した存在へと成長していくという期待である。この参加民主主義論の活性化に大きな影響を与えたのが,アーレントの『人間の条件』。

実際の政治過程において参加民主主義のビジョンを積極的に打ち出したのは,1960年代から70年代にかけて盛んになったニューレフトの運動(ソ連を中心とする当時の既存のマルクス主義とは一線を画しつつ,資本主義体制の抜本的改革をめざす運動)であった。多元的民主主義論者とみなされていたダールも企業内の意思決定過程の民主化の必要を唱えるなど,参加民主主義は当時広範な影響力を行使するにいたるが,ニューレフト運動の退潮とともに衰退。

新たなデモクラシーを模索する動きは,1990年代になって再び盛んになった。
規範的政治理論の分野で現在注目を集めているものが,「討議的(審議的)民主主義」と呼ばれるモデルである。
この立場の論者によれば,多元的民主主義論やその後の合理的選択理論においては,政治過程をあたかも市場における財の交換であるかのようにみなす政治観が支配的である。しかしながら,民主的な政治とは,単に諸利益の間のバーゲニングの過程に還元できるものではない。そこに自由で平等な市民の活発な討議(議論)があり,その結果何らかの合意が形成されるという過程が確保されることが決定的に重要だというのである。というのも,討議によってはじめて個人の自由と自律が確実に保障されるからである。たとえば,討議的民主主義論著の一人ガットマンによれば,討議の場に加わらない(もしくはそこから排除されている)市民は,一見自由なように見えても,実際には政治的権威による操作に対しきわめて無力な存在であるむしろ,討議と説得の過程にかかわることで,はじめて個人の自律性は強固なものとなるというのである。その場合,討議的民主主義は,参加民主主義のように市民の政治への直接参加が不可欠であるとはみなさない。現代の代表制の枠組み自体は尊重しつつ,政治家に市民に対する徹底した説明責任(アカウンタビリティ)を確保することでも,討議的民主主義の理念は実現できるとされる。討議的民主主義論はハーバーマスの「理想的発話状況」におけるコミュニケーションの理論の大きな影響下にあるが,ハーバーマスほど討議に参加する者の理性能力を重視しない立場もある。

また,現行の民主主義体制が暗黙のうちに国民国家システムを前提としているというところに批判の焦点を定め,脱国民国家型のデモクラシーを模索する動きもある。こういったデモクラシー論はマルチカルチュアリズム(多文化主義)とも連動し,定住外国人への選挙権や社会保障給付の権利の付与,就労の自由の保障といった新しい要求を掲げる。さらには,一国内部において独立性の高いエスニック集団に広範な自治権を与えたり,マイノリティ集団を単位とする集団代表権の制度を導入したりすべきだという提言も出されている。こういった模索は,フェミニズムやネオ・マルクス主義の一部をも巻き込むかたちで,ラディカル・デモクラシーとも呼ばれる流れを形成した。その一方,国民国家を超える地球大の単位でのコスモポリタンな民主主義を構想する論者もいるなど,現行のリベラル・デモクラシーに対するオルターナティブなデモクラシーを求める多彩な議論が展開しつつある。

政治学の基礎

政治学の基礎

政治学の基礎 (単行本)
加藤 秀治郎
一芸社; 新版版 (2002/04)
イデオロギー、行政国家、官僚制、国際社会と安全保障等について、各種試験にも対応できるように標準的な内容で解説。政治学を初めて学ぶ大学の教養課程や短期大学の学生のためのテキスト。2001年刊の新版。

4901253247

-第1章政治権力
–権力と強制力
–権力の実体概念・関係概念
–政治権力と社会権力
–権力の零和概念・非零和概念
–現代社会の権力構造
–権力論の新しい動向
-第2章支配の正統性と政治的リーダーシップ
–支配の正統性
–権力とリーダーシップ
–リーダーシップの特性理論・状況理論
–政治的リーダーシップの類型
–リーダーシップの類型
-第3章イデオロギー
–イデオロギー
–現実政治とイデオロギー
–自由主義と保守主義
–社会主義と共産主義
–ファシズム
-第4章政治意識
–政治意識
–政治的無関心
–政治参加と政治意識の変化
–政治的社会化
–政治文化
-第5章デモクラシー
–古代のデモクラシー
–市民革命のイデオロギー
–自由民主主義
–民主主義と社会主義
-第6章デモクラシーをめぐる諸問題
–参加デモクラシー
–統治能力の低下
–多極共存型デモクラシー
–競争的民主主義
-第7章議会政治
–等族会議から近代議会へ
–代議制民主主義
–議会政治の原則
–行政国家と議会政治
–一院制と二院制
–委員会制度
-第8章政治制度
–権力分立
–大統領制と議院内閣制
–アメリカの政治制度
–イギリスの政治制度
–日本の政治制度
–フランスとドイツの政治制度
-第9章政党
–政党の成立条件
–政党の発展
–政党の機能
–政党と綱領・政策
–政党と支持層
-第10章政党制
–政党制の分類
–イギリスの政党制
–主要諸国の政党制
–政党制と連立政権
-第11章選挙制度
–選挙の基本原則
–選挙の機能
–代表制の二類型
–比例代表制における議席配分
-第12章投票行動および政治資金
–現代社会における選挙
–投票行動の理論
–選挙と政治資金
-第13章圧力団体
–現代社会と組織的利益
–圧力団体の類型と特質
–圧力団体の理論
–圧力団体の機能
–圧力団体と政党
–アメリカ社会と圧力団体
-第14章圧力団体と政治過程
–圧力政治の形態
–ネオ・コーポラティズム
–市民運動・住民運動
-第15章現代の行政国家
–政治社会の変容
–行政国家化の諸問題
–管理社会の危険性
–行政改革
–官僚と政党
-第16章官僚制
–官僚制の概念
–官僚制の逆機能
–情実任用制と資格任用制
–官僚制と民主主義
–日本の官僚制
-第17章大衆社会の政治
–市民・公衆・群集・大衆
–大衆と大衆社会
–大衆社会の政治
–多元的社会
–大衆社会におけるエリート
-第18章政治的コミュニケーション
–政治宣伝と権威主義的パーソナリティ
–大衆社会とマスコミ
–マス・メディアの政治的効果
–議題設定機能とアナウンス効果
–マス・メディアのグローバル化
-第19章国家
–国家の概念
–国家の主権
–社会契約説
–一元的国家論と多元的国家論
-第20章政治体制の理論
–ポリアーキー
–全体主義体制と権威主義体制
–現代国家と独裁
-第21章日本の議会政治と政党
–政党政治の発展
–議会制度の変遷
–選挙制度
–選挙運動
–日本における投票行動
-第22章日本の政治過程
–現代日本の政党制
–保守党支配
–圧力団体
–地方自治
-第23章国際政治
–国際主権と国際政治
–国内政治と国際政治
–国際政治の変質
–ゲームの理論
–グローバル化・リージョナル化
–国際テロ
-第24章国際社会と安全保障
–国際社会と安全保障
–集団的安全保障
–自衛権と安全保障
–東西問題と南北問題
-第25章政治思想と政治学の発展
–古代・中世・近代の政治学
–近代の政治理論
–伝統的政治学から現代政治学へ
–現代政治学の先駆者
-第26章現代政治学の理論
–イーストンの政治体系論
–アーモンドの政治文化論
–政治学の最近の動向

政治への関心を深めるために
①芳賀綏『現代政治の潮流』(第三版、人間の科学社、一九八九年)
②加藤秀治郎『ドイツの政治・日本の政治』(一藝社、一九九八年)
③丸山真男『日本の思想』(岩波書店、岩波新書、一九六一年)
④M・ウエーバー『職業としての政治』(岩波書店、岩波文庫、一九八〇年)

政治学の入門書

①加藤秀治郎・中村昭雄『スタンダード政治学』(新版、芦書房、一九九九年)
②阿部齊『政治学入門』(日本放送出版協会、一九八八年)
③堀江湛・岡沢憲芙編『現代政治学』(新版、法学書院、一九九七年)
④高畠通敏『政治学への道案内』(増補新版、三一書房、一九八五年)
⑤堀江湛・芳賀綏・加藤秀治郎・岩井奉信『現代の政治と社会』(北樹出版、一九八二年)
⑥依田博ほか『政治』(新版、有斐閣、一九九三年)

政治学の全般的な専門書

①篠原一・永井陽之助編『現代政治学入門』(第二版、有斐閣、一九八四年)
②阿部齊『現代政治理論』(日本放送出版協会、一九八五年)
③曽根泰教『現代政治理論』(日本放送出版協会、一九八五年)
④山川雄巳『政治学概論』(第二版、有斐閣、一九九四年)
⑤阿部齊・有賀弘・斎藤真『政治』(東京大学出版会、一九六七年)
⑥丸山真男『現代政治の思想と行動』(増補版、未来社、一九六四年)
⑦石川真澄・曽根泰教・田中善一郎『現代政治キーワード』(有斐閣、一九八九年)
⑧加茂利男・大西仁・石田徹・伊藤恭彦『現代政治学』(有斐閣、一九九八年)

政治学の動向
①白鳥令 編『現代政治学の理論』(早稲田大学出版部、上巻・一九八一年、下巻・一九八二年、続巻・一九八五年)
②猪口孝 編『現代政治学叢書』(全二〇巻、東京大学出版会、一九八八年~)

事典

①阿部齊・内田満・高柳先男編『現代政治学小事典』(新版、有斐閣、一九九九年)
②大学教育社編『現代政治学事典』(新訂版、ブレーン出版、一九九八年)
③猪口孝ほか 編『政治学事典』(弘文堂、二〇〇〇年)

文献紹介・資料集

①佐々木毅編『現代政治学の名著』(中央公論社、中公新書、一九八九年)
②『時事年鑑』(年刊、時事通信社)、『朝日年鑑』『読売年鑑』『毎日年鑑』(年刊、各新聞社)
③『世界年鑑』(年刊、共同通信社)

現代政治学の方法

①堀江湛・花井等編『政治学の方法とアプローチ』(学陽書房、一九八四年)

政治社会学・政治心理学

①秋元律郎・森博・曾良中清司編『政治社会学入門』(有斐閣、一九八〇年)
②堀江湛・富田信男・上條末夫編『政治心理学』(北樹出版、一九八〇年)
③E・フロム『自由からの逃走』(新版、東京創元社、一九六五年)
④D・リースマン『孤独な群衆』(みすず書房、一九六四年)
⑤R・ドーソン、K・プルウィット、K・ドーソン『政治的社会化』(第二版、芦書房、1989年)

政治過程・選挙
①阿部斎『現代の政治過程』(日本放送出版協会、一九九一年)
②児島和人『マス・コミュニケーション受容理論の展開』(東京大学出版会、一九九三年)
③加藤秀治郎編『選挙制度の思想と理論』(芦書房、一九九八年)
④川人貞史・吉野孝・平野浩・加藤淳子『現代の政党と選挙』(有斐閣、二〇〇一年)
⑤的場敏博『政治機構論講義』(有斐閣、一九九八年)
⑥辻中豊『利益集団』(東京大学出版会、一九八八年)
⑦岡沢憲芙『政党』(東京大学出版会、一九八八年)
⑧岩井奉信『立法過程』(東京大学出版会、一九八八年)
⑨三宅一郎『投票行動』(東京大学出版会、一九八九年)

日本の政治

①橋本五郎・飯田政之・加藤秀治郎『図解・日本政治の小百科』(一藝社、二〇〇二年)
②曽根泰教・金指正雄『ビジュアル・ゼミナール日本の政治』(日本経済新聞社、1989年)
③阿部斎・新藤宗幸・川人貞史『概説・現代日本の政治』(東京大学出版会、一九九〇年)
④G・カーティス『「日本型政治」の本質』(TBSブリタニカ、一九八七年)

国際政治学

①高坂正尭『国際政治』(中央公論社、中公新書、一九六六年)
②加藤秀治郎・渡遽啓貴編『国際政治の基礎知識』(芦書房、一九九七年)
③須藤眞志編『却世紀現代史』(一藝社、一九九九年)
④初瀬龍平・定形衛・月村太郎編『国際関係論のパラダイム』(有信望、2001年
⑤猪口孝『国際経済の構図』(有斐閣、一九八二年)

比較政治学

①M・ドガン、D・ペラッシー『比較政治社会学』(芦書房、1983年
②岩永健吉郎『西欧の政治社会』(第二版、東京大学出版会、1983
③高瀬淳一・近裕一『世界の政治・日本の政治』(実務教育出版、2001年

政治史

①岡義武『近代ヨーロッパ政治史』(創文社、一九六七年)
②蝋山政道『よみがえる日本』(「日本の歴史」第二六巻、中央公論社、一九六七年)
③石川真澄『戦後政治史』(岩波書店、一九九五年)
④W・ラカー『ヨーロッパ現代史』(全三巻、芦書房、1998年、1999年、2000年

政治思想史
⑤勝田吉太郎『民主主義の幻想』(増補改訂版、日本教文社、1986年)
⑥有賀弘・内山秀夫・鷲見誠二・田中治男・藤原保信 編『政治思想史の基礎知識(有斐閣、1977)
⑦関嘉彦『社会思想史十講』(有信堂、一九七〇年)

ベーシック・インカム

トニー・フィッツパトリック『自由と保障 ― ベーシック・インカム論争』

第1章 基本に進め

■ベーシック・インカム(BI)
‐すべての男性・女性・子供に対し、市民権に基づく個人の権利として、職業上の地位、職歴、求職の意思、婚姻上の地位とは無関係に、無条件で支払われる所得のこと。

○賛成論
・ 現在の社会保障システムよりも効率よく最低所得を保障できる。
・ ベーシック・インカムはすべての者の地位が平等。貧困や失業をかなり軽減できる。
・ 個人の自律性の向上。
・ 少ない費用での運営が可能。
×反対論
・ 無条件で給付されるため、受給者に対し何も要求できない。←義務の側面を無視
・ 運営には多額の費用がかかる。給付水準が低いと低所得層にとっては苦しい。

・ ベーシック・インカムはあらゆるイデオロギー的立場から支持と批判の両方が寄せられる。
・ ベーシック・インカムが、どのような特性、意義、効果を持つかは、BIの実現されるイデオロギー的社会環境がどのような性質をもっているかによって異なる。
・ 右派と左派のBIは基本的には別物。論争のイデオロギー的な側面を議論の中心におくことに、本書の独自性がある。

■本書の目的
1. 「最小限モデル」の理解。イデオロギー的な次元とは無関係にBIを理解する。
2. イデオロギー的な見取り図の製作。
3. 政治理論と社会政策といった学問分野とBIの関係を示す。

2. イデオロギー

―イデオロギーは時代遅れ?
1. 「イズム」の時代の終焉。
2. イデオロギーは、とりわけ社会的世界を歪んだ形表象する大きな物語であり、無用の長物である。

・ イデオロギーは「外側の」世界を映し出すだけでなく、その世界に対する働きかけや介入を動機づける。人間の集合的行為を通して、数世紀にわたってイデオロギー上の相違から形成された世界と向き合わなければならない。
・ 「私たちは今、一体何をしているのか?」という問いに対して、ポスト・モダニストとポスト構造主義者は(何をすればいいのか、ということに関する)処方箋がない。混乱した不安定な世界のなかで進むべき方向を見つけようとするとき、イデオロギーは貴重な判断基準を提供する。

3. 比較のなかのベーシック・インカム
・BIを比較アプローチによって扱うだけでは不十分。
① BI論争における、フェミニズムや環境保護運動の貢献を無視するおそれ。
② 現在、BI制度は存在しない。
③ BI論争が福祉レジームのレベルで行われることがなく、また、普通は、政府レベルでの論争さえない。

■BI論争が政府レベルの広がりを見せる国

① アイルランド
② オランダ
③ ブラジル
④ カナダ

4. 市民権についての一言

・BIに関するイデオロギー論争は、実際は市民権に関する論争。
・市民権という概念…「受動的な要素」と「能動的な要素」。
・市民権→法的な居住資格

5. 結論と本書の構成

筆者のスタンス:ベーシック・インカムを支持。
・ ただし、急進右派の「負の所得税」(NIT)は支持しない。ほぼ全員に対してミーンズテストを行うため。

ダールのポリアーキー論

ダールのポリアーキー論

第二次大戦後のアメリカ政治学の第一人者となったダールは.デモクラシーの理念ではなくその現実を客観的に分析しようというシュンペーターの方法的自覚を受け継ぎながら,エリートと大衆とを対立させるシュンペーターの二元論を克服しようとした。その際にダールが注目したのは,「集団」であった。集団こそ,孤立した無力な個人と,政治に対して全面的に責任を負うと期待される指導者層の間を媒介する存在なのである。

ダールはまず,デモクラシーの伝統は,政治的平等と人民主権を奉ずる人民主義的民主主義に尽きるものではなく,第4代アメリカ大統領マディソンに発するもう一つの民主主義のモデルがあると主張した。
マディソン的民主主義は,徒党(faction)をうまく利用することに成功した体制である。マディソンによれば,一つの徒党が強大な権力をもつ事態は民主政にとって致命的な結果をもたらすが,複数の徒党同士が相互に牽制しあいつつ競合することは,民主政にとってよい結果をもたらす。
このマディソン的民主主義の伝統は,現代のアメリカにおいては,企業・労働組合・政党・宗教団体・女性団体といったさまざまな利益集団相互の競合と調整というかたちで,着実に受け継がれている。ダールは,著書『統治するのはだれか』(1961)において,1950年代のアメリカ社会のケーススタディを通し,そこではエリート論者が主張するような,一枚岩的なエリート層による政治権力の独占は実際には存在せず,権力はさまざまな利益を代表する複数の社会集団の間で共有されていると結論づける。また,個人が複数の団体に重複加盟することも少なくない。こうした集団間の交渉や連携によって一種の競争的均衡が生じ,市民は集団を通して十分に指導者をコントロールすることができる。その意味で民主政は,少数エリートの統治ではなく,複数の少数集団の統治であるというのである。

ダールはこういったアメリカの現実の民主政を,理想としての完全な民主政とは区別するために,特にポリアーキーと名づけた。ポリアーキーにおいては,ばらばらの個人ではなく,利益をともにする者の間で組織された複数の集団が相互に交渉しつつ,議会における最終的な決定にいたるまでのさまざまな過程に影響力を行使する。選挙や議会における決定という制度的局面の背後でこのような活動が展開していることこそ,アメリカを相対的にはより民主的な政体とする重要な鍵なのである。

このように,利益集団や圧力団体のような自立的集団の活動に注目する議論は,多元主義もしくは多元的民主主義論と呼ばれる。近代社会がさまざまな利害に分裂した多元的社会であるとすれば,利益集団間の妥協によって合意を導くというのは,そのような社会によく適合する民主政の一形態であることは否めない。もちろん,それがうまく機能するのは,個人の利害がいずれかの利害集団に確実に代表されていること,また利害対立が経済的なそれのように,何らかのかたちで妥協可能な比較的穏やかなものであることが,暗黙のうちに前提できる社会においてのみであろう。とはいえ,ダールのモデルは,リベラルな社会における民主政の安定という観点から見れば,きわめて説得力のあるものと受け取られたのである。